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『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』をどう読むか。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

「分かりやすさ」に振り回される人びと

いわゆるこうした「事件本(?)」は、洋泉社のではないものの、宮崎勤酒鬼薔薇といった、今回の事件と並べられるであろうものはそれぞれ読んだ。そして今回のこの本は、レーベルのせいなのかもしれないが、前二者と比べて圧倒的に面白くない。それはこれまで散々指摘されたこの事件の「分かりやすさ」のせいだろう。
現に本書に記事を寄せる論者27人の議論は、事件を既存の文脈(事件直前の社会情勢、論者の持論)にストレートに流し込むもの、またそのように事件を安易に「物語」に回収することの危うさを指摘するもの、この二つに大別できる。そしてこの二項は事件発生後一ヶ月の間にテレビ・ラジオ・新聞・ネットで散々繰り返されてきた構図となんら変わらない。ベタにしろメタにしろ、この事件にまつわる言説は「分かりやすさ」に支配されていることの証左となっている本である。*1そもそもタイトルからして「アキバ通り魔事件をどう読むか!?」であり、90年代の犯罪に付き物だった「心の闇」、つまり事件の容疑者である加藤智大という人間の「分かりにくさ」にアクセスしようという試みは端から放棄されている。容疑者自身の、物語に回収されないパーソナリティをどうにかこじ開けようという宮崎―酒鬼薔薇ラインで繰り返された試みは断念され、代わりに加藤智大容疑者をいかに物語の束に分解し、回収していくかという営みが繰り返されている。

物語の断念と欲望と

となると、この本に限らずメディア上に散見するこの事件についての言説を見た者は、なぜ我々はかようにも「分かりやすさ」から逃れられないのか、という疑問を持つことになる。そういう観点からすれば、荻上チキ氏の「物語の暴走を招くメディア/メディアの暴走を招く物語」という論考はそれなりに意味のあるものだった。事件を既存の物語に押し込める者がいて、それを受容する者がいる。そしてその物語のイデオロギー性を指摘する者がいる。まさにバルトの神話作用の構図にほかならぬが、荻上の論考はそうした構図そのものを提示する「解説者」(バルトの議論にそんなものはないだろうが)という立場であったように思える。
無論、荻上はそうした構図を高らかに解説し悦に入るなどという愚は犯さず、かような構造がいかにつまらないか、世の中を動かす力がないかを指摘する。社会を動かす力を持つのは常にそうした神話の構造の発生源たる加藤=事件を起こした者である。彼は言う。「そこで提示される物語にナイーヴに反応するのではなく、事件の衝撃やメディアイベントを「たくましくスルー」しつつ、それが通り過ぎた後に淡々と社会のアップデートを計っていくしかない」(p.97)と。
もちろん、文化系トークラジオLIFE秋葉原事件特集でチャーリー=鈴木謙介が指摘していたように「物語への欲望」は非常に強い磁場を持っている。「分かりやすさ」を振り切り、「たくましくスルー」できるのは文字通りたくましき「マッチョ」たる必要があることは留意すべきだろう。

あとは個人的に面白かったのは、東浩紀が、これまで新聞やテレビで述べてきたようなパフォーマティブでポリティカルコレクトな意見ではなく、かなり彼の持論の「ゲーム的リアリズム」の話に引き付けていたのが目新しかった(僕の観測範囲外ですでに話しているかもしれないが)。

*1:そう言う僕自身ももちろんそのうちの一人であった。

我々は何を隠してきたのか、あるいは「不可能性」の変遷

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

大澤真幸『不可能性の時代』を読み返していた。つらつらとメモ程度に。

不可能性―現実と反現実の乖離

東浩紀木原善彦が、大澤の(元は見田宗介の)命名法を援用して「理想の時代」「虚構の時代」に続く現代を「動物の時代」「現実の時代」と名づけていた。だがそもそもこの見田―大澤の「〜の時代」という命名法は「現実」の対義語としてどのような言葉が参照されているか、という考察に基づいているものであり、その考察を省略した命名法はオリジナルの意図には反するものである。(東については大澤との対談で直接指摘されていたようだ。)

大澤は、隠された「現実」を捜し求める「現実への逃避」と、ジジェクのいう「カフェイン抜きのコーヒー」のような徹底した形式への没入という「極端な虚構化」に現代社会が引き裂かれている、と指摘する。
生々しく、時に暴力的な「現実」への欲望と、コーティングされ、美しく安全な「虚構」への耽溺。これら二つの相反するベクトルが同居する現代社会は、つまるところそのどちらの視座にも捉えられない、<現実>を隠蔽しているのではないか、と彼は述べる。現実にも虚構にも捉えられぬ<現実>は、その名のとおり名状しがたい「不可能なもの」である。大澤はここから「虚構の時代」に続く現代を「不可能性の時代」と名づける。

理想の時代においては、理想は反現実でありながらしかしまさに反現実として参照されることで、現実へのフィードバックが存在した。虚構の時代においても、それは理想の否定形として、逆説的に現実へのフィードバックが存在した。ところが不可能性の時代においては、我々はそもそも「反現実」を参照することができない。極端な「現実」と極端な「虚構」へと視線がするりするりと逃れてしまう。大澤が不可能性の時代は最も反現実の度合いが高い、と述べているのは、この現実と反現実の極端な乖離ゆえである。

理想の時代における<不可能性>

さて彼は相反する二つのベクトルから逃れる<現実>をXと措き、最終的にそれは<他者>であるとしている。

人は、<他者>を求めている。と同時に<他者>と関係することができず、<他者>を恐れてもいる。求められると同時に、忌避もされているこの<他者>こそ、<不可能性>の本態ではないか。*1

「現実化」と「虚構化」の二つのベクトルから逃れ行く、別の言い方をすれば実践と認識から逃れ行く<現実>を、何が不可能なのかというその主語を彼は<他者>と措く。第三者の審級無き現代において、<他者>と関わるには直接的な接触とその負荷との間で板ばさみになる。極端な「現実」への欲望は<他者>への欲望でもあり、そして極端な「虚構」への耽溺は<他者>からの逃避でもある。結局のところ欲望と逃避に引き裂かれ、我々は<他者>と出会うことはできない。

ここで一度大澤の議論から離れる。理想の時代が終わり、虚構の時代へと移り変わっても、「理想」そのものは有効だった。それは単に個人の志向するものとなり、社会的な「反現実」としての機能を失っていただけである。同様に虚構もまた虚構の時代以外にもそれ自体は失効していなかった。とすると、現実と虚構から逃れ行く「不可能性」もまた不可能性の時代以外でも存在したのではないか(不可能なものが存在するというのもまた矛盾した言い方だが)。
不可能性の時代において、「不可能なもの」とされたのは<他者>であった。では理想の時代において「不可能なもの」であったのはなんだったのだろうか。一つ提示したいのは、<自己>である。1945年から1970年前後までの「理想の時代」において、敗戦という現実からスタートした日本人は、当初は迫り来る死から逃れるようにひたすら「生」を目指した。生きること。服を着てものを食べ家に住む。この「生」という究極の現実への欲望は、戦後の困窮期を超え高度経済成長時代にも引き継がれた。
敗戦からドライブされた現実への欲望がある一方で、敗戦からドライブされた虚構への逃避もまた存在する。戦後、戦争の恐怖は様々な形で虚構の中に埋め込まれた。分かりやすいのは1954年公開の特撮映画『ゴジラ』である。人々が必死に生という現実を生きる一方で、戦争の恐怖、特に核への恐怖は虚構の中で日本人を蹂躙し続けた。しかしその恐怖はアメリカという具体的な名前ではなく、ゴジラという架空の生物に背負わされた。

敗戦から始まった、生という現実への欲望と戦争の恐怖の虚構化は、しかし理想の時代が終わりに近づくにつれ、自己目的化し、それぞれ極端になっていく。死から逃れるための生であった人々の生活は経済成長によって自己目的化し、生活のための生活、成長のための成長へと近づいていった。『ゴジラ』もまた、シリーズの回を重ねるごとに戦争の恐怖は薄れ、ついには子供のヒーローという極端な虚構へと向かう。虚構のための虚構である。

この現実の極端化と虚構の極端化という構図は、時代が違うのでそこで参照される現実と虚構はそれぞれ違うものになっているものの、大澤が本書で指摘した不可能性の時代におけるそれと相似形である。
そして理想の時代における不可能なもの、極端な現実化と極端な虚構化に引き裂かれしもの、それは<自己>であろう。1945年当初は<敗者>というアイデンティティを保ちえていたこの国は、そこからスタートした現実への欲望と虚構への逃避が次第に自己目的化していく。その過程で<自己>、つまりこの日本という国は果たしてなんなのか、日本人としての私達は一体なんなのか、そうしたアイデンティファイを経て形成されるはずの<自己>は、隠蔽され続けていった。<敗者>としてのアイデンティティは、死から逃れる生への欲望に拠って、また一方でトラウマ化した戦争への恐怖に拠って担保されていた。だが前者は経済成長によって薄まり、後者もまた虚構化が徹底されるにつれ薄まっていく。日本も、日本人も、<自己>は隠されていった。

<自己>と<他者>の間にあるもの

理想の時代における「不可能なもの」が<自己>であり、不可能性の時代における「不可能なもの」が<他者>であるとすると、間にある虚構の時代における「不可能なもの」はなんなのか。もはやここからは完全な言葉遊びに過ぎないのだが、<自己>と<他者>の間に存在するのは何かを考えると、<世界>とか<社会>とかであろうか。つまるところ第三者の審級の隠蔽そのものである。
戯言を続けるなら、<自己>を隠し<世界>を隠し<他者>を隠してきた我々は、次なる時代において何を隠すのか。1大澤の区分で言えば、不可能性の時代が終わるのは2020年前後。もうこうなってくると隠すものはなくなって、どこぞの危ないカルト宗教のように「2020年に地球は滅ぶ!」とでも言ってみたくもなる。いや無論滅ばれては困るのだけれど。

*1:本書p.192

情報の複雑化と望まれる「マスメディア」

仰るとおりで。……といいたいけれど、事態はそれほど容易なレベルではなくなっている。「それはどのような経路で伝えられてきたのか」「なぜ伝えられてきたのか」といったメタ情報が必要になるということ、それはマスメディアによって伝えられる情報の一意性が疑義にかけられ、その正当性を担保する審級が既に失われていることを意味する。そしてオブジェクトレベルの情報の真偽を決定する審級が喪失している以上、メタレベルの情報の真偽を決定する審級ももはや一つには定められない。地球温暖化に関する論争などその典型例である。温暖化の証拠とその反証といわれる有象無象の「一次情報」が飛び交い、それを取り扱う「専門家」「識者」の言説がまた飛び交い、その言説についての言説もまた世に溢れている。

そしてあまりにメタレベルの情報の重要性「だけ」を喧伝すると、今度はたちまち陰謀論者がニヤニヤ笑いと共に舞台の袖からやってくる。あくまで現実の一部を切り取り判断するためのものであったはずの情報が逆に「現実」としてせり出し、価値の転倒が起こる。

ネットの情報を鵜呑みにすればメディア・リテラシーが高くなると思いこんでいる(そんな奴がほんとにいるのかどうかも分からないが)輩は、このメタレベルの情報をオブジェクトレベルにまで引き下げ、それを「本当の現実」として振り回している。ただそれも仕方が無いといえば仕方が無いことで、上記のように既にマスメディアが流すオブジェクトレベルの情報にせよそれについてのメタレベルの情報にせよ、真偽を決定する審級が一つに定まらなくなっている以上、こうした情報の転倒や、果てしなきメタレベルの議論(いわゆる「空中戦」)に突入するのは避けがたい。今たまたま読み返していた『UFOとポストモダン』の著者、木原善彦の言葉を借りれば「『個人的価値観』に基づいて各人が自分の好きな『現実』を選び取っている」状態が、社会の一部とはいえあるのは事実だ。

無論このような「情報戦」に普通の人々が耐えられるわけもない。ここでメディア・リテラシーの王道としては複数ソースの掛け合わせで蓋然性を上げる、となるのだろうが、個人的には短いスパンで見ると結構悲観的である。20年30年掛けてそうした教育をしていけばそれなりに大多数の人間が「啓蒙」されるだろうが、その時には既に情報の伝達システムが全然別のパラダイムにシフトしているとしたら。20年前と現在の違いを見れば、あながち一笑に付せる話でもないかもしれない。

となると、少なくとも短期的には「分かりやすさ」ゲームがどんどん広がっていくのだろう(現に今はそのモードだと思う)。メタ/オブジェクトを問わず情報がフラットにかつ大量に提示されている現在、望まれるのは人々の欲望にマッチし、かつ複雑な情報をお手軽簡単にまとめてくれるメディアだろう。大多数の人間の情報処理能力は20年前と大して変わっていない。しかし情報は無数に溢れている。とするとそれは必然的にマス志向のメディアになる。インターネットが普及してなお「〜のまとめ」「やるおで学ぶ〜」が人気を得るのも、結局そういうことなのだ。(ありがちな陰謀論も、ある種の人々に取っては「正しく」「分かりやすい」情報なのだ。)

マスメディアはダメだダメだといわれているが、複雑化した情報のハブ、という枠組みで考えればむしろ「マスメディア的なもの」は今後一層強く望まれるものだと思う。結局のところ見せる人間が見る人間の欲望を先取りし、見る人間がそれに応えるという共犯関係が不滅である以上、変わるのは媒体とその時々の旬のネタだけな気もする。

批評とは、暴力であると思う

批評とは、暴力であると思う。

暴力は善悪の彼岸よりやってくる。あらゆる論理や倫理に先立つ。私があなたを殴った。そのことをは厳然たる物理的現象であり、それ以上でもそれ以下でもない。それに対する善悪の判断、倫理は、こうした原初的な暴力に対する脆い後付けの柵である。
批評、なるものを僕はほとんど知らない。少なくとも文芸批評について書いたことは無いし読むことも少ない、なのでid:sakstyle主宰の筑波批評社として講談社BOX:東浩紀のゼロアカ道場この道場破りに参加することになった(筑波批評社は6人いるのでまだどの2人が出るかは決まっていない)今も、「批評」なるものが何かは、分からないでいる。だがかしこまった学術論文でもなく、さらさらとしたエッセイでもなく、しかし読み手に何かを訴える文章を書かねばならぬ、書きたいと思うとしたら、それはもはや文章による暴力である。現実に存在する何かを名指し、他と切り分ける行為である。そこに論理や倫理があるのではなく、それが論理や倫理を作り出す。大理石から寒天まで、あらゆるものを切り出し、この世に現前させる。それは鋭利な、実に鋭利な暴力である。

先日、ゼロアカ道場の主宰、東浩紀2ちゃんねる東浩紀スレッドに降臨した。とりあえずゼロアカ関連の質問を受け付けていたようだったが、

>>> つーか、ゼロアカの質疑応答はゼロアカのほうでやれよ。
アンフェアだろうに。。

その場にいれるかどうかも才能。
重要事項はちゃんとあとで公式に告知しますよ。

ゼロアカに関する質問を来週やります とか告知した?
なんで、そんなのしなくちゃいけないの?w
高校の入試じゃないんだから。みな自分で情報は探すんだよ。
ついてるやつはついてるんだよ。それが人生でしょ。<<

と言う受け答えがあった。これが大学受験なら相当まずいが、批評のレースにおいてルールは所与のものではない。批評が暴力であるならば、暴力のルールは暴力が決める。最初に一発殴った奴が「殴るのOK」というルールを作り、最初にナイフで切りつけたやつが「ナイフもOK」というルールを作り、最初に核爆弾を落とした奴が「核もOK!!!」というルールを作り出す。

ルールは我々の繰り出す拳の先にある。我々が繰り出すナイフの切っ先にある。我々が文字を書くペンの先にある。アカデミックな論文は既存のディシプリンに従えばある程度の方法論的正当性は調達できようが、どうも話を聞くだに批評はそうではないらしい。とするならば、あるものを名指しそれを他と切り分けたその返す刀で自らの立つ位置もまた切り出さねばならぬ。

今後批評社内では誰が中心の2人となって道場破りに参加するのか決めるのだが、僕個人としては上記のような意味で「暴力的」な批評を書いてみたいと思っている。名指し、切り分け、そしてまた新たな地平を切り出す。印刷された文字があたかも人を殺せるかのような批評。

形式への没入と予告.in

葬儀と資本主義―形式への没入

先日、大叔母の通夜に出てきた。よくある郊外型葬儀施設に入り親族席に座りながら、棺を囲む、葬儀会社の用意したありがちな葬儀用ガジェット(シュミラークル?)について思いをめぐらさせていた。
式が始まる前、親族に向かって葬儀会社の担当者がこう言った。「お焼香のやり方についてですが、流派に拠って異なりますが今回はお焼香は一度きりにしてください。というのも普段皆さん三回お焼香やられると思うのですが、それを意識するあまり手を合わせる時間が短くなってしまう傾向があります。なのでお焼香にかける時間は短く、手を合わせる時間を長く取れるように、そうしてください。」
魂胆としては単にお焼香にかかる時間の短縮、プログラムどおりの進行をしたいだけなのだろうが、「手を合わせて目の前にいる死者に思いを馳せるほうが大事」と言われれば確かにそうなのかもしれない、と思ってしまう。

そのとき、葬儀、もしくは宗教的な儀式は資本主義と相性が良いのだなぁと改めて感じた。葬儀は、死者への思いをその場にいる者が同時に馳せる場であるが、しかし個人の思いそのものは個別具体的であり、ばらばらである。そこで各人は死者へ思いを馳せるときの「形式」を統一することで、死者を集合的な記憶の中に位置づける。たとえ死者への思いがバラバラであっても、形式が同じなら同じように思いを馳せている、と措く。形式への没入である。
資本主義もまた、形式への没入によって成り立つ。資本主義は個別具体的な、一回性(アウラ)そのものを扱うことはできない。カタチあるものしか扱えない。貨幣という形式への没入、モノという形式への没入。1000円札は誰がどのようにそこへ思いいれようが、個別具体的な価値を見出そうがその形式は1000円札としての価値しか生み出さず、資本主義においては1000円札としての価値しか持たない。モノも、同じモノならばそこにどのような思い入れをもとうが形式は同じであり、また等価に扱われる。

このような類似性は無論宗教的な儀式のみに限らぬし、あらゆる場面でそれを指摘できるだろう。それが資本主義の強さであり、本質なのかもしれないと感じた。

予告.in―形式へと没入させるアーキテクチャ

話が変わるが、本日放送予定の筑波批評社Ust、「自己啓発トークラジオSURViVE」で、秋葉原事件以来話題の「予告in」を扱うらしい。この予告inもまた、形式への没入の体現者と言える。秋葉原事件前後で話題になっている「犯行予告」は、実に具体性を欠いた予告以前のものであることが多い。せいぜい時間と場所を指定して「皆殺しにする」程度のことを書き込めばあっという間にクロールされて通報、個人特定されてお縄頂戴となる。果たしてその予告がどれほど実行可能性/蓋然性があり、具体性のあるものなのか。そこら辺は全くのブラックボックスでありながら、しかしそれゆえに、具体性がないからこそそれは"Risk"("Danger"ではない)と見なされ、摘発の対象となる。書きこんだ本人の意図や実行可能性と言った個別具体的な部分は問題ではなく、その文の形式のみを取り扱っている。形式への没入である。

形式への没入は、個人が主体性を維持することの極北にある。インターネットは規範(norm)ではなくアーキテクチャによる形式への没入を可能にした。Web2.0の本質が「主体の喪失」にあるとはまさにこういうことなのだが、しかるにアーキテクチャルに人々(クロールされた「犯行予告」を通報する人・通報された「犯行予告」を摘発する警察)を形式へと没入させる予告.inは、まさにその典型例だと言えるだろう。

葬儀において我々が形式に没入するその先には、死者への想いがある。資本主義において我々が形式に没入するその先には何があるのか。何も無いといわれ続けて来たのがマルクス以降の歴史のような気もするが、詳しくないので省く。そして予告inにおいて形式に没入する人々のその先には何があるのだろうか?観念的で絶対的な「悪」だろうか。はたまた観念的で絶対的な「正義」だろうか。予告inはインターネット上の一部で苛烈な反応を引き起こしたが、しかし事態は様々な位相で同じ方向、アーキテクチャによって誘われし形式への没入、というパラダイムに確実にシフトしていくのだなと感じた。それは善悪の彼岸にある、構造的な変化である。

報道というプロペラは誰が回すのか トークラジオ「LIFE」の秋葉原事件特集についての違和感

報道という行為の循環構造

6月22日「秋葉原連続殺傷事件」Part2 (文化系トークラジオ Life)

いつもpodcastで聞いているこのラジオ、先月22日の放送は6月8日の秋葉原通り魔事件についてだった。
その中で、サブパーソナリティの1人、IT・音楽ジャーナリスト・津田大介氏が事件とメディアの関係、端的に言ってしまえば現場にいた人がモバイルPCを使って動画でライブ中継するという行為について見解を述べていた。だがそれを聞いていて、個人的にはなんともいえぬ賛同と違和感の入り混じった複雑な感想(津田氏自身も微妙な言いよどんだような違和感を表明している)抱いた。

津田氏は、事件の当日、現場の様子をUstreamというツールを使いウェブ中継するという行為が行われたことに対し、「原始的で個人的な違和感」を表明している。そしてまたそうしたインターネットを使った個人の中継配信を従来の報道機関による報道行為と混同すべきではない、としている。

ただ。本当にそうなのだろうか。報道と個人の中継配信は違うものなのだろうか。

報道と言う行為は、何か絶対的な正当性がバックに存在しているわけではない。報道の正当性を支えるのは、まさに報道と言う行為に他ならない。彼らの報道を行うことで、情報は社会に発信され、それが行為として認知されていく。そしてその事後的な認知を元手にまた報道を行う。報道と認知との絶え間ざる往復運動、それを続けることに拠って、循環の輪を止まることなく回し続けることによって、成り立っている。それは撮る者と見る者の共犯関係、とも言える。

津田氏と同じタイミングで、同じくサブパーソナリティの斉藤哲也氏もまたこう述べている。既存の報道機関の人間はプロとしての義務感があり、責任があると。故にそうした覚悟の無い者による動画配信はまた質が異なると。

確かにプロの記者には責任がある。それは確かに個人の責任感ではなく会社に仮託されている。

ではなぜプロの報道機関には責任があるのか。
対価を貰っているから。対価を貰う以上そこに期待された仕事を果たさぬわけにはいかない。
何故対価が払われるのか。それはメディアの俎上に載せる価値があるから。
何故その価値があるのか。それはそうした情報を見たいと思う人間がいるから。
何故そう思う人間がいるのか。それはそれを報道する人間がいるから。

結局、それを報道だと思い価値を見出す人間がいるから報道をすると言う、マッチポンプの構造は変わらない。個人によるUstなりなんなりの動画中継との違いは、そこに会社なりお金なりが挟まっているか否かであり、彼らの持つ正義感であるとか、プロとしての責務のようなものが絶対的な正当性を担保するものではない。無論、メディアの歴史を紐解くとそこには近代において公共性が立ち上がってきた過程との関わりが存在したりするのだが、しかしそれは循環構造を回し始めた「出発点」「契機」であって、いざそれが回り始めたとき、その原点は循環の輪の中に溶け込み、やがて消失する。プロテスタンティズムの倫理が資本主義を駆動し、それが循環し始めた暁には、肝心の出発点であった信仰心が消失していたように。

なので報道と言う行為は、その循環構造に拠って回り続けている限り、単純な論理構造で正当化できるものでもないし、逆に否定できるものでもない。もし何か絶対的な権威があってそれが影から報道と言う行為を照らし出しているのならば、その関係性に疑義を挟み込むことで否定も出来よう。そうではない。報道に対する論理的な支えも、また否定の言葉も、この循環構造に飲み込まれ、消える。

だから、もしこのサーキットを否定するのならば、ロジックではなく感情、個人の違和感といったものでしかない。津田氏が最初に表明した「原始的で個人的な違和感」が数多く集まり、報道を見たいと思う人間が消えるとき、その循環構造は止まる。プロペラの止まったヘリコプターのように、地に堕ちる。

Ustreamによる中継は、かなり批判的な意見も集まったようで、それの多くは「不謹慎だ」とか「人としてどうなの」という、津田氏のような、ロジックではない「個人的な違和感」による者が多かった。そして恐らく、そういう人が多数を占める限りにおいて、それは報道ではない。プロペラは回らない。循環はスタートしない。なので番組内での個人的な違和感も、彼がtwitterでこぼしていた違和感も、それがそれである限りにおいて、多分正しい。逆に言えば、津田氏のような違和感を持たず、見るという欲望に肯定的な人間が多数派である限りにおいて、それは報道となる。今回はそうはならなかった。だが次は? 5年先は? 10年先は? 20年先は? それは未来の我々が決めることになる。

論理武装することの危険性

ところが、津田氏はこの話題に関する見解の最後で、個人的な違和感に敢えてロジカルな理由付けを試みる。「個人による動画中継は、ライフログであり、報道とはレイヤーの違うものだ」、と。原始的で個人的な違和感であったはずなのに、ロジックではなかったはずなのに、どうにかロジカルな理由付けを行おうとしていた。でも多分、それは当初の違和感で留めておいた良かったはずなのだ。あんなの気持ち悪い。俺は見ない。認めない。それで十分だったような気がする。

逆に既存の報道と個人の動画中継を無理やり論理的に分離させると、今度は報道があたかも絶対的な正当性のもと、勝手に動いているのだと勘違いされてしまう可能性がある。何度も言っているようにそれは違う。そしてそんな絶対的な正当性など無いからこそ、わざわざ報道の自由、表現の自由というフィクションを立て、法律で支えているのだ。逆に言えば、既存の報道だって、我々が「ないわー」と言って見ることをやめればそれは報道として成り立たなくなるし、またまともなモノを伝えていないと思えば見ることをやめてそれを潰すことも可能だし、可能でなければならない。

このようなことをわざわざ言うのは、別に僕が既存の報道機関が嫌いだからとかそういうのではない。「インターネットが世界を変えるんだ!」と叫びたいからでもない。インターネットは好きだが、昔からテレビにしろ新聞にしろ報道を好んで視聴してきた人間でもあるし、今もそうだ。
だからこそ、もし我々が報道が必要であると思うならば、それを空から降ってきた神様の贈り物かのようにその存在や正当性を絶対視、自明視してはいけないと考えている。絶対的でないからこそ、論理的に自明で無いからこそ、報道は人々の様々な努力でもって支えてきたし、今も支えられている。

報道というプロペラは回り続ける。
誰がまわしているのか。報道する者、それを見る者である。
誰が止めるのか。報道する者、それを見る者である。
なぜ回るのか。回り続けるからである。

では何故回り始めたのか?それを回そうとした数多くの人間の努力と長い時間があったから。

では今後も回り続けるのか?それは我々が決めることである。もしかしたら、もし我々がプロペラの回り方に無自覚であり、勝手に風が吹いて回っているのだとのほほんとしていたら、いつか止まってしまうかもしれない。それを強く人々が望んだ結果なら、それはそれでありだろう。けれど、「気づいたら止まっていた、止まると困るんですけど、動いてくれませんか」では遅すぎる。

「承認」だけでは済まぬ問題たち―物語と承認の彼方に

「承認」の話が自分の観測範囲内でちょくちょく見られるので後出しじゃんけんをしてみる。「ロスジェネ」のシンポでも色々話が出たようだが、パフォーマンスと言えどナイーヴな議論も出たようで、またいくつかの議論はその焦点がぼやけているものもある、と思ったので書いてみた。彼女が出来れば、セックスできれば、コミュニティに所属すれば、作品を認めてもらえれば、「承認」にまとわり付く諸問題は解決する、というわけではない。問題はその深層にある。

自己の連続性としてのアイデンティティ

「承認」と一口に言ってもそれは様々なコンテクストの中で語られ、また意味を持つ。だからこそはてな村で延々と議論されまた車輪の再発見をもたらしうるのだが、それではちょっとノイズが大きすぎるので、社会学者のアンソニー・ギデンズに拠って(彼の)「アイデンティティ」論に置き換えてみる。

まずは引用から。

自己アイデンティティは、生活史という観点から自分自身によって再帰的に理解された自己である。*1

ある人のアイデンティティは行為のなかにあるものでも、他者の反応のなかに――これは重要であるが――あるものでもない。むしろ、特定の物語を進行させる能力のなかにあるものである。*2

ここで言う「アイデンティティ」とは、自分はこれこれこういう人間である、という自分についての「物語」を持ち、かつそれを維持していく能力のことである。例えば大学を出てサラリーマンになって結婚して子供を持つ、そういう人生送ってきた人間は、そうした過去によって現在があるのだと感じ、またそれに基づいて未来への予測をつける。このように自分の「物語」が過去・現在・未来において通時的連続性が保たれている状態を「アイデンティティが保たれている」と呼ぶ。

逆に言えば、この「物語」の一貫性が失われたとき、その人のアイデンティティは保持されなくなる。典型的なのは大きな病気や事故である。それらははその人の物語を中断させ、苦痛に満ちた、「物語」に回収することを承服せざる人生へと彼を追いやってしまう。

ただし、人は最初から単一の物語を生きているわけではない。複数のレイヤーからなる複雑な人生を生きている。その中でどれをどのように自分の「物語」とするのか、そうした取捨選択が常に行われる。*3
「承認」とは、人生の中に散らばった出来事の中から、どれを「物語」のうちに組み込むのか、その判断材料だと考えている。例えば僕は「自分は大学生で、社会学を学んでいる人間だ」という物語を持っていたとする。これはゼミなり授業なりの大学生活を送ることで日々維持される。ところが周囲の人間から「部屋に引きこもってネット三昧の君が大学生?wwwニートの間違いだろJK」「君、社会学やってるとかこの成績で良く言えるね。卒業だぁ?ここは病院じゃないんだよ。」*4等々言われ続ければ、つまり「承認」がえられなければ、当然僕は「自分は大学生で〜」という自分史を「物語」として採用できないし、そうしていたとしてもたちまちその物語は破綻する。

そして承認がない、アイデンティティの喪失という話をするときに問題となるのが、アイデンティティを保持する際の「自明性」である。上で書いたように、アイデンティティを保つには、「物語」の連続性を保つには日常生活におけるほんの小さな「承認」さえあれば良い。わざわざ「承認された!」とか感激するレベルのものは必要なく、そこに疑問を挟み込まない、「自明である」状態が保たれればそれで良い。逆に言うと、「私は何故このような人生を送っているのだろう」「私は何故このような『物語』を選んでしまったんだろう」という疑問を抱いてしまうと、「自明性」は崩れ、アイデンティティの保持は難しくなる。ランニングマシーンの上で走っているときに、「何故私は走れているのだろう」「何故足は動くのだろう」などと考えたらあっという間に足は止まりランニングマシーンから振り落とされる。

「幸福の神義論」―物語の正統性をどう確保するのか

自分の「物語」を相対化してしまい、「他にもありえたはず」の自分を想像してしまうと、そしてそれがリアリティを持ってしまうと、アイデンティティの危機に陥る。ギデンズのみならず多くの識者が言うには、近代、特に「後期近代」と呼ばれる現代にあっては、こうした「他にもありえた自分」に容易に遭遇する。シノドスα2〜3号やその他の著作において社会学者の鈴木謙介が「幸福の神義論」と呼んでいたのはこうした問題群だと思われる。人生40年生きてきて今までそれなりに幸せだと思っていたが、様々な情報に接してみると本当はそうじゃなかったんじゃないか、他にも幸せな人生がありえたんじゃないか、そういう疑問を持ってしまう。自分の「物語」の正統性をどう調達するのか。批評家の福嶋亮太氏が自身のブログで挙げていた「神話」「スピリチュアル」などはこうした問題を解決するのに使われる。「前世」などのスピリチュアルな言説は、個人の「物語」を直接構成するわけではなく、その物語の彼岸において、物語の正統性を後ろから照らし出す。そしてそうしたシステム全般を「神話」と呼ぶ。前世がこうだったから、あなたの「物語」の選択は正しい。こう言われることで、アイデンティティは保持される。またギデンズは同じ文脈で「セラピー」の重要性を挙げている。

同じく批評家の藤田直哉氏がブログで「承認する人間への承認」と名づけた問題は、この「物語」の正統性を担保するシステムの構築、ということになるだろうか。ただこれはかなり難しい問題である。というのも巷で言われるような「承認がない!」というのは、実はほとんどがこの承認する者への承認、物語の正統性の確保という話に繋がるからだ。
そしてこの問題が解決困難なのは、ひとえに「見てしまったこと/知ってしまったことは、見なかったこと/知らなかったことに出来ない」という不可逆性にある。「他にもありえた自分」を想像してしまった人、「私は本当に幸せだったのかしら」と疑問を抱いてしまった人は、その想像なり疑問なりそのものを「キャンセル」は出来ない。逆に言えば、そうした疑問を持たなければ、たとえ一般的に見て辛い境遇でも、物語の正統性を確保して生きている人はたくさん居る。例えば「フリーター」という境遇。このブログでもたびたび言及している労働社会学者の新谷周平の論文に出てくる「地元のつながりを異常に重要視する若者」たちは、たとえフリーターや無職であっても自分たちの生き方を相互に承認しあい、特に実存的な問題を抱えることなく生きている。そこには彼らの物語に正統性を与えるようなカルチャーが存在している。逆に彼らは、そうしたカルチャーに耽溺する限り、その境遇にずっと居続けるだろう。

ただこうした人々はむしろ例外であり、歴史的にも近代国家は規律訓練の過程を利用して「あるべき自分」を人々に見せ続けてきた。ベネディクト・アンダーソンの言う「巡礼」である。後期近代においてその役割は民間企業に取ってかわられた。企業内部では「自己分析」とそれに続く「キャリアデザイン」を要求される。消費社会においては、メディアを通じて「あるべき消費の姿」を見せられ続ける。

過食症社会―我々を飲み込み、吐き出すこの社会

福嶋亮太氏が言うように、こうした状況はもはや不可逆的であり、かつ物語の正統性を調達するシステムは益々見えづらいものになっていくだろう。ジョック・ヤングは我々の生きるこの後期近代を「過食症社会」と呼んだ*5。社会は我々に「あるべき自分」「こうであったかもしれない自分」を次々に見せてくる。文化的な側面―主に消費文化―においては社会は我々を「飲み込む」。だが一方でなかなかその「物語」の正統性は与えてくれない。その物語を選んだ自分を承認する根拠を与えてくれない。そうして社会は我々を「吐き出す」。

「物語」の正統性の調達。幸福の神義論。承認する人間への承認。この難儀な問題を考えるに当たって、単に性的欲求を満たせば良いとか経済的な補助をすれば良いとか言った議論はあまりにナイーヴであり、また先人たちによって棄却されてきた。我々が欲しているのは、単なる承認でも物語でもなく、その奥にあるアイデンティティの統御システムである。その崇高なるシステムにアクセスできる人間は減っており、また今後も減り続けるだろう。そこから漏れた人間はどうするのか?一つは小さな集団の中で物語の正統性を調達する「カルチャー」を作ることだ。だが社会的ステータスの確保と「あるべき自分」の達成が関連付けられた社会に置いては、「カルチャー」の中で耽溺することは社会のババをひくことに繋がるかもしれない。むろん既に社会的ステータスを持っている人間が同じことをする例もあり、その象徴がホリエモン逮捕以前の六本木ヒルズカルチャーであった。

哲学者東浩紀の言う「動物」は、この難問に対する一つの解であったと思う。そして秋葉原の事件はその解の正当性に小さな傷を付けた。その傷は次第に大きくなりつつある。動物にもなれなかった者の意義。

ギデンズの予言を受け入れるならば、我々は日々どうにか物語の正統性を見つけようともがきつつ、時にセラピー的な外部装置によってそれを調達する。その繰り返しで生きていくのだろう。過食症社会の中で、「飲み込まれ」ながらもどうにかこうにか「吐き出され」ないようにギリギリのところで繋がる。その往復運動の中で擦り切れながら、人生を終える。それはおそらく不可逆的である。そんなのは嫌だ?では「ドラッグ」に頼るしかあるまい。*6「あるべき自分」「こうであったかもしれない自分」も、過去も未来も全て忘れさせてくれる麻薬に。

*1:アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』p.57

*2:前掲書 p.59

*3:なので「物語」の中には当然事実とは異なる出来事も混ざってくる

*4:そ、そんなこと僕は言われて無いんだから!ところで「ここは病院じゃない」は秋山仁が実際に言われたらしい

*5:ジョック・ヤング『排除型社会』

*6:http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080628/1214639591 この中段以降を参照