絶倫ファクトリー

生産性が高い

階層的回想

 一年前。僕がまだ高校生で、同時に受験生でもあった頃。教室内では教師が口上程度に話す既知もしくは無用の知識が、多大なるアルファー波となって僕に降り注いでいた。つまり睡魔だ。往復一時間半の移動時間に対し、得られるものが質の悪い睡眠といくばくかのトリビアでは、登校拒否にもなろうというものだ。そして事実、僕は1月になると学校に行くフリをして、駅前のロッテリアの二階テラスでコーヒーを飲みながら、眼下に広がるホームの風景を見下ろす生活に浸っていた。時にコーヒーがシェイクに変わるときもあったが、変化といえばそれだけだった。あとは適当に塾の宿題をやり、適当に単語を覚え、適当に惰眠を貪った。結局なんだかんだでやってることは学校に行こうが行くまいが大してかわら無そうだったが、あのラッシュと定刻どおりに来たためしがないバスへの苛立ちを回避できるならば、それだけで価値があった。
 平日の午前中にロッテリアにいる人というのは限られている。リストラ食らったのかも分からないおじさんか、子供連れの主婦か、たまーーーに制服を来た同志か。たまに忙しそうにキーボードを叩くOL風のお姉さんもいたが、まぁそんなもんだった。その中で僕はひとり優雅なサボりの時間を楽しんでいた。そしてそういった時、僕は店に入って最初のうち、ダッフルコートを着たままであった。一応学校に行くフリをしているのだから、制服は着ていかねばならない。だが平日の昼間からロッテリアの二階に制服の高校生がのんびりしているのもさすがに目立つ。だから僕はコートを脱ぐのが嫌だった。しかしテラスはガラス窓が多く、南から日の光がさんさんと注ぐ。そして何よりコーヒーが熱かった。ここに通ううち、冷めたホットコーヒーはまずいということに気づいたので、熱いうちに飲んでしまう僕としてはいい加減コートを脱がないと暑くてやってられない。
 そして結局コートを脱ぐのだが、僕が着ていた、そしておおよそほとんどのダッフルコートはブラスチック製の鍵爪みたいので前を止める風になっていた。僕は鍵爪を外しはじめた。
 そのとき、というかこの爪を外す十数秒の間に、僕ははっと我に帰った。着くたびれたコートと、テカテカに薄れている制服のズボンに包まれた自分を、その日初めてまじまじと見るのがこの十数秒だった。つまりこのコートの鍵爪を外す瞬間、僕はその日初めて「僕」になるのだ。カギカッコつきの「僕」。他人からの視線というカギカッコを帯びた僕。受験への不安と現実を直視することへの嫌悪感と、いやおうなしに積み重なるタスクにおびえてすごす怠惰な時間。それらを内包し、かつそれを発露している自分をみつめることで浮かび上がる「僕」。
 何をやってるんだろう。何で自分はここでこんなことをやっているのだろう。どうにもしようがなくなった「僕」に気づいた僕は、しばらくそのまま物思いに耽る。だが結局どうしようもないことに変わりはなく、僕はそのままいつもの時間をいつものように過ごす。そして脱いだコートを着て店を出る時、また同じような「僕」に気づき、さらなる嫌悪感を抱くのだ。
 そんなことを、一年後またロッテリアでふと思い出すとは思わなかった。そして何より、一年後も似たような風景が生活の一部分に流れているとは、いっそう思わなかった。
 気づいてはいるのだ。カギカッコ付きの「僕」にも、それを見つめる自分にも。だがそれをどうしようもないと怠惰に過ごすのは、あまりにも無益というか、せっかくの自分の気付きをゴミ箱に放り投げるようでもったいない気がしてきた。
 動いてみるか。少しずつでもいいから、カギカッコ付きの自分を活かしてみようと思った。ぶ暑いダッフルコートに身を包んでいても、それを脱いだ制服姿の高校生は、やはりあの場にいるべきは無い自分だったのかもしれない。代わりに僕は、他人の視線という、自己を律するためのコートを着てみようかと思う。それをほんのわずかな、微々たるものではあるが一種の成長として、来年また一年前を思い出したときに、うなづけるようになりたい。







注:この文章はドイツ語のテストの直前にかかれたものです(いや、テストだってちゃんと気付いたよ?)(直前に)(気付きって大事だよって話でした)(誰かテスト代わりに受けてくれ)