絶倫ファクトリー

生産性が高い

[]舌の根も葉も枯らしてやるわ!



【外フレーム】

 昨今、ニートや引きこもりといったワードに加え、ライブドア事件や永田議員によるガセメール問題もひっくるめ、「若者バッシング」ともいうべき現象が顕著になっている。オヤジが「最近の若者は・・・」と眉をひそめるレベルではなく、いまや社会現象となっている。そしてその現象を支えるのは「若者は叩いていい」という風潮である。彼らが若者を叩き、「若害」なる用語まで作り出してしまうのはなぜか。むしろ彼らはなぜ若者を「叩ける」のか。
 彼らのバッシング、というよりも彼らの間違ったニート論を見るに、バッシングを超えてそこには若者に対する「排除」の意図が汲み取れる。彼らは若者を叩くと同時に、自分たちが謳歌してきた「過去」の素晴らしさを強調し、保守反動の流れも組みつつ、彼らが善とする一昔二昔前の日本社会にともすれば戻すべきだという論を持ち出す。社会構造の転換によって若者を排除しようとする。
 しかし、「排除する」という行為には、その根拠が二重の意味で必要になってくる。外在的根拠と内在的根拠だ。たとえば障害者を人々が差別し、社会から排除しようとするとき、彼らはまずその障害者が障害者たるゆえん、つまり彼らの障害そのものを理由に排除しようとする。これが外在的根拠だ。しかし、障害者に障害者は排除できない。なぜなら相手の障害を理由に排除しようとしたところで「お前も一緒じゃないか」とカウンターを食らうに決まっているからである。そこでその当事者同士で相手を差別しあう、罵り合う事態が起きても、それは「排除」ではなく「争い」である。相手を排除する際、相手方にその排除の理由がまず必要だが、もうひとつ必要なのが自分の正当性である。障害者の例であれば健常者が障害者を差別するとき、彼らは自分たちが障害を持たず、健康であることを正当性とし、排除する。これが外在的根拠である。
 排除される側の「外在的根拠」と排除する側の「内在的根拠」。これを先の若者排除の言説に当てはめてみると、ニート論やひきこもり、ライブドア問題等は「外在的根拠」にあたる。そして彼らがその後に決まって持ち出す「我々の時代は良かった」的な言説は「内在的根拠」である。ではその根拠の根拠、つまり「我々の時代は良かった」という言説の根拠はいったいどこから来るのだろうか。

 私はそこに4〜5年前から顕著になり、今も続く「昭和レトロブーム」を持ち出したい。突拍子もないかもしれないが、だがこの昭和レトロー特に昭和30年代を美化する傾向にあるーに子供時代や青春時代を送った世代が今の若者排除の中心なのだ。彼らが昭和30年代に抱くノスタルジー。そこにはその時代が持つ光、もしくは彼らの中では光となっている側面しか存在しない。その時代特有の影というものはすっぽり落ちている。ここに「ノスタルジー」システムの解明が必要になる。ノスタルジーがもしその対象になる「過去」のいい面だけを記憶の中に残し、同時に悪い面を排除する機能を持つならば、彼らはその中で自分たちが生きた昭和30年代を美化し、自分の中で帰るべき「家」、むしろその「家」が「喪失してしまった」ことに対する郷愁を持つのではないか。そしてその喪失感はこの時代にあって特に顕著となり、逆に自分たちの時代への正当感を強めていく。
 こうして彼らはノスタルジーというシステムの媒介の下、自分たちが謳歌した時代を正当化し、排除の内在的根拠にしたのではないか。

【内フレーム】
 
1.ニート=ひきこもり ライブドア永田メール

2.若者バッシング

3.バッシング⇔排除
↓ 
4.構造としての排除

5.排除の理論

6.内在的根拠

7.ノスタルジー

8.正当性の確保

【結節点】 

・バッシングが本当に排除なのか。排除が起きる構造、仕組み。
・保守反動的な「昔に帰れ」が構造的に若者を排除しうるのか。排除そのものの構造。
・排除に本当に内在的/外在的根拠は要るのか。
・要るならば30年代へのノスタルジーは内在的根拠になり得るのか。なぜ30年代が対象となったのか。
・なりうるならばそのノスタルジーによる正当性の確保の理論(光のスイッチオン/影のスイッチオフ)
・その後の方向性→問題なのは30年代をノスタルジーに扱うことではなく、それを自明視する雰囲気?→内在的/外在的根拠の自明性


と、いうわけで今年度のテーマはこれにしようと思う。本気で論破しようとしたらこんなブログ一回分で収まるわけがない。まずはフレームの磨き上げ、結節点を作る道具立て。トンテンカンテン。