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絶倫ファクトリー

生産性が高い

mixi論?


若者バッシングの中で、「若者が、ネットなどを介してメディアの世界に閉じこもっている」とかのバッシングがあるんだけれど、個人的には閉じこもって何が悪い、と言いたい。

インターネットや携帯電話は、「公共空間」と「私的空間」の境界線を融解させた。
匿名掲示板やブログの隆盛は、それを象徴している。
しかしこうした「境界線の融解」は、一方で摩擦も引き起こす。匿名であるがゆえの、誹謗中傷の「書き逃げ」や掲示板の「あらし」などがいい例だ。

こうした「オープンであるが故のデメリット」も、現在のmixiの爆発的普及の背景にあるのではないか。ブログをやっている人なら、出会い系の業者がつけたコメントやトラックバックの処理に時間を割いた人は多いはずだ。mixiなら足跡が付くし、そうそう悪いことはできない。何より知人から招待されないとmixiという世界そのものに踏み込むこともできない。

またmixiは知人からの紹介のほかにも、実名による登録が推奨されており、その理由としては「検索システムを通して、昔の知人とも知り合えるように」だそうだ。今日のゼミでは、初期のmixiは、マイミクもほとんど知らない人同士だったという話が出たが、こうしたことからmixiを用意した企業側としては、当初から爆発的に利用者が増え、現在のようなリアル世界での友人関係を貴重としたマイミク関係を想定していたものと思われる。

mixiはリアル世界の交友関係が基調だ。そして自分が日記を書いたら、そのことはマイミクの人たちに瞬時に分かるようになっている。そしてその内容は本当に単なる「日記」が多く、今日は何をしたとか、誰と会ったとか、気分がいいとか悪いとか。日常生活世界がそのまま反映されているように見える。

さらにmixiには紹介文システムが存在し、その人の他人からの評価がすぐに分かるようになっている。

以上のようなmixiの機能を見るに付け、それは近代の流動的な都市社会が成立する以前、非常に閉じた世界だった地域共同体、たとえば地方の「村」、にとても似ているように思える。mixiのマイミクにおける、知ったもの同士の狭いコミュニティというのはまさに昔の地域共同体の狭い人間関係そのものだし、日記の更新がすぐ人に知れてしまうのも、誰がどこで何をやってるのかすぐに分かってしまう地域共同体の狭さに通じる。そしてその人の評判については村の人誰もが共有しているように、紹介文を通じてその人の評価はすぐに分かってしまう。

だとすれば、インターネットにおける、オープンで流動性の高い「匿名掲示板」「ブログ」から、クローズドで流動性の低い「mixi」への流れは、近代社会の形成にともなって発展した、流動的で誰がどこにいるのか分からないような「都市」から、見知ったもの同士の、狭い人間関係に縛られた「村」への回帰現象なのではないだろうか。

日本は高度成長を超えて、特に近年地方でも都市化が顕著になった。都市化というのはすなわち人間関係が流動的になることであり、「アパートの、隣人の顔すら知らない」という現象が当たり前になることであった。そうした「誰がどこにいてもいいじゃないか」という多様性が認められることでもあった。しかしこの流動性の上昇=多様性の広がりは問題も引き起こす。ここでは詳しくは語らないが、ゴミだしのマナーの悪さに始まり、老人の孤独死なんかもその例かもしれない。これも、ちょうどインターネットにおける「公共空間」と「私的空間」の融解に通じる。

リアル世界において、現在都市にいる人間がみな村的な地域共同体に戻れるかといえばそんなことはない。もはや時計の針を戻すことはできない。だからこそ、インターネットにおいて「ブログ」から「mixi」へと、「都市→村」という、かつてあった「地域共同体」の再帰的構築が行われているのではないだろうか。これも社会学でいうひとつの「再帰的近代」なのだと僕は思う。