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絶倫ファクトリー

生産性が高い

「わかりやすさ」について

 前回、愛国心について「上から押し付けても意味がない」と書きましたが、一方で下から沸いてくる「愛国心」ってのはどうなってるんでしょう。先日の議論の中では、ワールドカップの熱狂振りがその例に出されていました。このことについては四年前、香山リカが「ぷちナショナリズム症候群」で語っていましたが、結局彼女は心理学の知識を応用しつつ、若者達の「歴史性」の乖離に着地しています。
 非常に面白い本なのですが、歴史性の乖離だけでは、ナショナリズムに進む「可能性」しか開けないような気がします。歴史性が欠如して、安易なナショナリズムに走る道は開けた。しかし道が開けたからと言って、必ずしもその方向に走り出すとは限らない。何かモチベーションというか、走り出すための「蓋然性」みたいなものが必要ではないでしょうか。
 先日の議論の場では、他の人と一緒にTV等でワールドカップを見た理由として挙げられたのが「一緒に騒ぎたい」というものでした。誰かと一緒に騒ぎたいだけなら、地域の祭りでも学校の体育祭でもいいわけですが、ワールドカップという世界共通のお祭りの中で「日本代表」という存在は、非常に多くの人と共有できるチャンネルです。一緒に騒ぎたいという目的からすれば、共有できる(と思われる)人間が多ければ多いほど優秀なチャンネルなわけで。
 そしてそこで大量に消費される「日の丸」や「サムライブルー」といった「日本らしさ」は、あくまでもチャンネルの共有性を表すシンボルです。しかも非常に「分かりやすい」。日の丸は国旗ですので自他共に認める日本のシンボルですし(ここの認識について香山リカが指摘した「歴史性の乖離」が出てくるのですが)、サムライブルーという言葉も、侍ではなくサムライであることを考えれば、外国人の目から見た日本の特徴ということで、自他共に認めるシンボルになりうる。
 ここに共通するのは、自分達にとっての「分かりやすさ」と同時にそれを見る周りの視線に対する「分かりやすさ」の両方が求められているということです。例えば僕は茅ヶ崎出身ですが、茅ヶ崎出身の人間が持つ共通チャンネルといえば「サザン」だとか「海」等です。これらは茅ヶ崎出身者同士の共通チャンネルであると同時に、茅ヶ崎の外の人間に対してもやはり分かりやすいシンボルです。


 ところが。こうした二重の意味で「分かりやすい」共通チャンネルをもったところで、果たしてそれが愛国心につながるのか?前回述べた愛国心は、議論の流れ的に「日本の中で考えた」愛国心でした。日本を割りとクローズドな空間と考え、その中で問われる愛国心とは何なのかを議論しましたが、今回の場合は違います。ワールドカップなり、茅ヶ崎なり、外の世界と接触して初めて共通チャンネルが意識される。他国の対義語としての自国への愛です。こうなると、ここで見受けられるのは「愛国心」というより、一種の「アイデンティティの揺らぎ」でしょう。外の世界と接触したときに「お前は誰だ?」という問いを受ける。そこで一つの答えとして持ち出してくるのが、「共通チャンネル」なわけです。自分にとっても分かりやすく、相手にとってもわかりやすい「共通チャンネル」は、自分のアイデンティティを説明するのに非常に都合が良い。
 逆に言えば、共通チャンネルを頻繁に持ち出すということはそのつど何かしらのアイデンティティの揺らぎを感じてるわけです。ワールドカップで言えば、サッカーの強さにおけるアイデンティティが揺らいだり、ね。

 つまりこうしたアイデンティティの揺らぎを感じることが多いと、当然共通チャンネルを頻繁に探すようになる。共通チャンネルを「受信」しやすくなるわけです。ところがこうやっていちいち共通チャンネルの受信感度を上げていると、逆に他の人間によって利用されやすくなる。上の人間から教育基本法なり国旗国歌の押し付けを食らったところで、共通チャンネルに飢えてるからあっさり受信しちゃう。もちろん押し付ける方はまた別の目的があると思うんですが、受信側は気付きようがない。
 こうした「アイデンティティの揺らぎ」→「共通チャンネルの受信感度上昇」→「権力の受容」という流れは、愛国心がらみだけでなく安全保障や治安維持の場面でも使用されています。凶悪な少年犯罪が増えている、という間違った情報を浸透させ、体感治安を低下させる。そうして身体的なアイデンティティの揺らぎを発生させ、セキュリティという共通チャンネルの受信感度を上げ、GPSだ監視カメラだと、「監視システム」という一種の権力をあっさり受け入れちゃうわけです。

では我々はどうすべきなのか?どこで流れを止めるべきなのか。一番簡単なのはそう簡単に揺らぎを発生させない「強度」が必要なんですが、それはそれで難しい。じゃあ最後の「権力の受容」をどうにかして水際で叩くしかない。まぁそうなるとさらに問題になるのが「権力の受容」に無批判な人たちが現在の日本では多いってことなんですが・・・こればっかりは一度痛い目を見ないと目を覚まさないのかもしれません。