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「優しさ」再考

さてさて、何気なく書いた昨日のエントリはある意味「大炎上」してしまいました。管理人が油注いでりゃ世話ないですね!

klovとaiさんの周りを一切無視した議論の果てにnyaro氏が加わってきたのでさあ大変。コメント欄では処理しきれなさそうなので、エントリ内で答えます。

昨日のエントリでは、僕はあえて「優しさ」の定義について深く言及せず、その取り扱い方について主に言及したつもりでした。そこで出された問いと結論は

Q.「優しくない人」に優しくない「優しい人」は本当に優しいのか

A.優しくない。→本当に優しい人は、優しいといわれる態度を取りつつ、それを第一義に考えない人or特に優しいといわれる態度を取るわけではないが、やたらと人に「当たり前」を押し付けない人

という感じでした。

ちなみにnyaro氏の「どこでコミュニケーション論が混ざったのか」という質問に対しては、おそらくこの直後だといえると思います。優しいけど他人に対しても同程度の優しさを求めてしまう人の存在について、ai氏の以下のような指摘がありました。
あ、ここでいまさら言うのは何ですが暴力うんぬんについての言及はあまり関係ないと思います。カットしてもよろしいかと。

相手に優しさを求める人は、自分の意図した文脈に沿ってコミュニケーション行為が成立した経験を相対的に多くもつ人なのかもしれません。
(なぜ文脈を壊さずコミュニケーションが成立しえたかについて)文脈が壊れなかった人たちは、能力や習慣の点で均質な集団に長く身を置いていたからそうなった、ということなのだと私は見ています。

で、僕は均質性を崩したくがないために文脈を壊さなかったんじゃないかとも考えられるという話をしたのです。つまり「優しさ」を媒介とした均質性の保持。
こういう点で言えば確かにnyaro氏の言うとおり「優しい人」は何かしらしてないといけないわけですね。ただここで注意すべきなのはこの「優しい人」が他人にも「優しさ」を求める「優しい人」ってことです。議論の出発点がそこでしたから。

で。以上の点を踏まえた上でnyaroのコメント欄に対応すると、

「優しい」って言葉は、基本的にはコミュニケーションにおいてそれを円滑に・気持ちよく進行するためのエッセンスで、「優しい」厳しさ、甘さ、どちらも包含すると思うのです。てか、そういう考え方を共有してもらえるのが理想な気がします。
そういう意味では「優しくする」ことの責任は、ai氏の挙げた例とは全く違う意味で原理的に取りえません。私・あなたの間で優しさがどちらかに作用するのではなく、私・あなた双方にやさしさが作用するので、「責任をとる」という主・客二元論の方法は適用できないわけです。

人の日記を上手くまとめやがって!というわけでその通りなんでしょう。「コミュニケーションにおいてそれを円滑に・気持ちよく進行する」ってことは要は文脈壊さないってことでしょうしね。
ところで、nyaro氏の「優しさ責任原論」を前提にすると、ai氏が述べた例の方は責任が取れる取れないではなく、別の理由でコミュニケーションにおける「優しさ」から撤退してる気がするんですが。どうなんでしょう。

ちなみに

(klov本文における「優しさ」はまず行為規範・道徳に関するものだったと仮定して)「優しい」=道徳規範に厳しいひと、が「優しくない」=道徳規範に反する人に対し「やさしくない」のはコードの押しつけというよりは社会の反応だと思われ。誰かを排除していく恐れのある者を、先んじて排除するのは規範の守護者たる「やさしいひと」のやらなきゃならないことでしょ。

ここにはあんまり同意しかねます。(僕は「優しさ」がどちらかというと「寛容」に近いものだと考えていたんですが、たとえnyaro氏のいう定義だとしても)
というのは、僕が問題にしたのはそもそもその「優しい人」が「規範の守護者」を請け負うことなんです。「優しさを第一義に考え」「その位置づけが他人も同じだと考える」と、多分その人は「規範の守護者」になるんでしょう。守護者って、自分が守ってるだけじゃなくて人にも守らせるってことだよね?