絶倫ファクトリー

生産性が高い

「脳を鍛える」気味悪さ

最近、今まで拒否反応を示してきたNintendoDSに興味がわきつつあるのですが、あれって最初はここまでブレイクする予想は出てませんでしたよね。スペック的にはPSPのほうが上だし、何よりデザインがダサダサだった。(PSPは本来開発進行状況的にもう少し遅めだったらしいのですが、あのDSのデザインを見て、このダサさなら同時に出してダメージを与えたほうが良いという戦略をとらせたほど、とも言われます)

にもかかわらずこれだけDSが広がっているのは、ひとえに「脳を鍛える」を謳い文句にした、大人向けソフトが受けているから。電車の中で携帯型ゲームをやってる大人をこれだけ見るようになる時代が来るとは!
つまりは財布を握ってる大人を揺さぶったことでブレイクにつながったと。でもこうした脳を鍛えるというか、勉強用といった感じのソフトは別にDSじゃなくてもあったんですよね。GB時代に。

で、何でいまさらこんなに売れてるのかというと・・・やっぱり「脳を鍛える」つーフレーズでしょうね。このフレーズがなければあそこまでヒットはしなかったと思います。そしてこのフレーズが当たった背景には、「脳」という、実は本質主義的な思考の根っこに行き着きそうな気がします。
「あいつは頭が良いから」というときの頭は、要は脳です。そしてこの言葉には「頭の良さは先天的な要素だ」という裏の意味も読めます。「脳」という、シンプルなまでに体の本質的な部分と直結しているように見える「頭の良さ」は、確かに本質主義的な思考とつながりやすい。
この本質主義的な「脳」を、あとから鍛えようというのは一見矛盾してそうですが、にもかかわらず「脳を鍛え」たい人たちがこれだけいると言うことは、脳という、本質主義的な部分へのコンプレックスの裏返しではないでしょうか。「頭の良さは先天的なものだ。だって脳を後から良くはできないもの」そういう諦めにも似た既成概念に「脳を鍛える」というフレーズはうまいこと進入し、世の大人たちに受け入れられた。

頭がいいこと→脳がいいこと というきわめて単純な本質主義的な考えが、というか「脳を鍛える」ソフトによって鍛えられた部分が頭の良さだと考える短絡的な思考が、僕はどうも気持ち悪くて嫌なんですが。頭の良さってのはもちっと別の部分で図られるべきだと思うのですが、どうなんでしょう。