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絶倫ファクトリー

生産性が高い

厳罰化の理由

社会学

ゼミの発表。フーコーが終わりました。トップバッターにもかかわらずB4用紙に細かい字で詰め込みまくって5枚叩きつけてきました。
評価は悪くなかったので、あとはコレを生かしてゼミ論です。どーなるやら。

で、メモ程度に思ったことを書き連ねる。

 酒鬼薔薇以降の少年法に対する厳罰化、加えて成年犯罪者に対しても最近強まってきた厳罰化の傾向。これはフーコーが示した、近代化に伴う「法の表徴としての刑罰→規律・訓練による矯正としての刑罰」という流れから逆行してるんじゃないか。牢獄の中で監視の下、強制的に労働させるのは、身体を通して犯罪者の「精神の変容」を求めたからであって。この観点からいけば、もし厳罰化が要求されるならそれは刑罰がうまく犯罪者を矯正できてない、再犯率が高い場合ですよね。
 ところが社会的背景はそうではない。「こんだけ残虐な犯罪を行ったのだからこれだけ厳しい処罰を受けるべきだ」という、ある種被害者的な立場からの要求。それは矯正ではなく、罪と罰を直接的に、視覚的につなげる表徴としての処罰。これは刑罰の議論の歴史上、明らかに逆行している。

 何故こうした逆行が起きているのか。すごく大雑把な言葉でくくってしまえば、「非寛容の時代」の一つの形なんでしょうか。矯正としての刑罰を求めること、それは犯罪者に対し、更正しもう一度社会の1ピースとして戻ってくることを望むことでも有る。表徴としての刑罰への移行はそれを間接的に拒否している。

 フーコーが指摘した「法の表徴としての刑罰→規律・訓練による矯正としての刑罰」という流れは、社会が急激に近代化する過程で起きた。それは流動性が高まり、不安定さが社会を飲み込もうとしているとき、何とかして安定を保とうという、つまりあらゆる多様なものを飲み込み許容することで安定しようという試みだったのかもしれない。
 とするならば、近代化が終了し、流動化しきってしまった社会は、逆に現状の均質性を保持したがる。そこには犯罪者をも言う一度社会の1ピースとして受け入れる寛容さはなく、ただひたすら異質なものを排除することで安定性を保とうとする社会がある。

 振り子のように社会の寛容さがふれるとするならば、今は不寛容の方にふれているのでしょう。もし次に社会が寛容の方向にふれるとき、それは新しい「近代化」の波が社会を飲み込むときかもしれません。