水溜り
金木犀の香りがまだほんのり残る午後、僕は従兄弟と一緒に公園を歩いていた。散歩というほど気楽なものでもなく、両親の買い物に付き合っている妹からお守りを頼まれただけだった。今年小学校に入ったばかりのお子様と話が合うわけもない。
僕はベンチに座り、従兄弟は僕の周りをちょろちょろしていた。僕が買ってきた新しい靴が気に入ったらしい。何かわけがあって走っているのではなく、それ自体が楽しいらしい。昨日まで降っていた雨のせいか残っていた水溜りを飛び越えたりと、何かと忙しそうだった。
「蜂!」
突然従兄弟が叫んだ。
「えっ!?」
思わず僕も叫んでしまった。僕の声の方が大きかったかもしれない。足元を見ると、一匹の小さい虫―実際蜂かどうかも分からない―が飛んでいた。黙ってみていると勝手にそれは飛んでいってしまい、大げさな声を出した僕一人が恥をかくことになった。
「にいちゃん驚きすぎだよ!」
確かに驚きすぎた。だが僕は蜂が嫌いだ。怖い。別に刺されたことがあるわけではない、ので痛さの加減も分からない。だから僕の蜂への恐怖は実態の無い不安であったが、ゆえにそれは形のない気体のように広がっていくのだ。こちらが何かしなければ襲ってこないとは分かっているが―
「日本人は蜂に刺されやすいんだよ」
従兄弟の指摘に僕はこう反論した。
「蜂は、本能的に黒いものを攻撃するの。だから髪の黒い日本人は蜂に刺されやすいんだよ」
とりあえずまっとうな反論のつもりだった。本能的に、のくだりを従兄弟が理解できているかは分からないが、とりあえず形にはなっているはずだ。
「へぇー! じゃあ蜂ってやっぱり怖いんだね」
「そう、怖いの。だから俺が驚くのも―」
「じゃああれも蜂にいっぱい刺されちゃうの?」
僕の話をさえぎって従兄弟が指差した方向。それは公園の外の道路にいつのまにか横付けされた、黒塗りの高級車だった。
「違うよ、蜂に刺されるのは生き物だけなの! 車は生き物じゃないでしょ」
「そうなの?」
「そうだよ」
本当に小学生なのか、と思うほどの会話だった。車が生き物なわけないだろう。いったい妹はどんな教育をしてるんだ。ありえない。他人事ながら僕は腹が立った。
だが―多分―僕は腹を立てているのではなく、本当は嫉妬しているんじゃないだろうか。従兄弟は車を生き物と間違えたのではない。文脈を解体しただけだ。蜂が黒い「生き物」を刺す。車は生き物ではない。だから刺されない。そういった「生き物」という文脈を解体して、「黒い」という文脈で車を蜂にをつなぎなおしたのだ。そしてそれは言葉を文脈につなぐ方法、つまり「常識」を解体することでもある。
子供は文脈を解体する。そして常識を解体する。知らないのではない。壊すのだ。一つの文脈に繋がれた言葉の「意味」を、解放する。それを許されている子供に、従兄弟に僕は嫉妬したのだ。
ふと顔を上げると、目の前に従兄弟がいた。考え耽っていたので気付かなかった。しばらくそこにいたらしい。何故か目に溜めた涙が、それを物語っていた。
「どうした? 蜂にでも刺されたか?」
そんなわけ無いと知りつつ聞いてみる。
「違うの……汚しちゃったの……」
「何を?」
「買ってもらった……靴……水溜りに…」
見ると、さっきまで真っ白だった靴が泥水で黒くなっていた。そういうことか。こいつも一応「常識」は持っているらしい。
「何で泣いてるの?」
「だってせっかく買ってもらったのに・・・汚しちゃったから・・・」
浮かべた涙を流すまいと上を必死に向く姿が、それこそ涙ぐましい。だから僕はこう言ってやった。
「別に汚れてないよ」
「えっ?」
「『そういう色』になっただけだよ。別に汚れたんじゃない」
従兄弟は口を開けてぽかんとしていた。僕も意味を解体した。従兄弟の真似をしたみた。「汚れる」という文脈につながれていた「泥水」を、「色が変わった」という文脈に変えてみた。
彼は真似されたことにも気付いてないらしい。無意識のうちにそんなことが出来る従兄弟に、また少し嫉妬した。
「帰ろっか」
うん、と従兄弟は頷いた。ベンチから立つと、金木犀の香りはもうほとんど残っていなかった。先に歩き出した従兄弟のあとを付いていきながら、僕は後ろを振り向いた。そこには、従兄弟が突っ込んだと思われる水溜りがあった。
この水溜りはいつまで残っているのだろか。ふとそう思った。