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生産性が高い

メディアの「分量」

朝見ていた報道番組で、財政破綻した夕張市の惨状を特集していた。財政破綻に陥ったのは随分前に報道されたが、その結果市民がどんな生活を強いられるのかという「その後」はあまり報道されていなかったため、こうした姿勢はいいなと感じた。
が。小学校中学校が計11校からそれぞれ1校ずつに削減され、図書館も公衆トイレも廃止され、医者もいなくなり産婦人科はなくなり保育園の費用は高騰し、もはや死の街になりかねんとする夕張市の現状が報告される中、画面の右下に同時中継で流れていたのはがけに取り残された一匹の犬の姿である。コンクリートが網目状に打ち付けられた急斜面の一角で立ち往生してしまったらしい。レスキュー隊が出て救出作業だネットだ何だと騒いでいる。それは夕張市についての特集が終わるまで続き、更にはその後も流れていた。
確かその前も既に流していた気がするので、夕張市の惨状と一匹の犬に割いた時間は同じか子犬の方が多いかだった。全国最低の生活と市側が既に言っちゃっているような窮状と勝手に迷った犬が同じ時間テレビに映るというのはおかしいのではないか。報道番組として割く時間の分量を間違っている気がする。
とそのときは思ったのだが、よく考えてみればこれらが例えばYahooのトップページにニュースとしてリンクされていた場合、リンクが張られている時間の差を除けば「タイトル一行とそのニュースのページへのリンク」という点において全く同じである。人が死のうが犬が救出されようがそれはネット上においてはリンク一つで分量は同じなのだ。
新聞と比較すればもっと分かりやすい。社会的に何が重大で何がそうでもないのかを、記事が占める面積で相対的に評価している。ニュースは時間によって評価する。こうしたやり方は、社会的にいったい何が重要なのかを感覚的に把握できる反面、その基準はあくまで報道する側にあり、見る側に判断の主体性はない。報道する側のイデオロギーに操作される可能性もある。
ではネット上のニュースはその重要性を比較することは出来ないのか。単なるリンクの一つ一つとして処理されるのか。僕はソーシャルブックマークが社会的な役割を持つとすればここにあるのではないかと思う。ソーシャルブックマークはテレビや新聞と違い、「何が重要なのか」を見る側が判断し、ブックマークされている量で視覚的に重要度が分かる。ある記事においてそれがブックマークいる数だけ人々が注目しているということであり、新聞の紙面量、テレビにおける放映時間として比較対象になる。集合知というほどではないが、何が重要なのかを知るという点においては、「みんなの意見は案外正しい」を適用してもいい気がする。