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生産性が高い

相互行為としてみた「いじめ」

いじめ問題

ちょっと前にいじめについて書いたエントリがあったが、本を読んで真面目に考えてみると何だか随分的外れなことを書いたような気がしてならない。でもまぁ自戒も含めてそのままにしておく。

Amazon.co.jp: 心と行為―エスノメソドロジーの視点 (現代社会学選書): 西阪 仰: 本

西坂仰の「心と行為」を読んだ。ここで使われてる「参与アイデンティティ」や「参与フレーム」は、言葉は新しくても概念としては古いものだろうけど、面白かったので一つ考えてみた。

前回のエントリでも書いたとおり、いじめが社会的な問題として取り上げられたのは別に今年に始まったことではなく、20年も前から同じ様なことがおきている。表層だけを見れば事態はほとんど変わっていない。
おそらくいじめはこの先何十年経ってもなくならない。減りはしてもゼロにはならない。
何故いじめがなくならないのか。理由はいくつもあるだろうが、いじめを一種の相互行為としてみたとき、いじめの「フレーム」としての力が強すぎるのもその一つだと思う。
人が複数人集まって、会話なり何なり「相互行為」を行うとき、そこには「アイデンティティ」と「フレーム」が発生する。会話においては通常「話し手」としてのアイデンティティと「聞き手」としてのアイデンティティが、その参加者の中に割り振られる。こうしたアイデンティティの組み合わせをフレームと呼ぶ。(例えば病院の診察に於いては「医者」ー「患者」というフレームが発生する)
いじめの舞台となる学校において、普段採用されるフレームは「教師」−「生徒」のフレームであったり、部活に於いては「顧問」−「部員」のフレームであったりする。ところが授業外や部活外で、教師や顧問が参与しないところでは、こうしたフレームは無効になる。そのとき生徒達はフレームの中で割り振られた「生徒」「部員」というアイデンティティを失うことになる。
この後生徒同士の中でどのようなフレームが採用されるのか。本来挙げられるのは「友達」−「友達」フレームであり、「友達」としてのアイデンティティの獲得である。だが友達関係と言うのは片一方が勝手に友達だと思い込んだから友達になれるわけではなく、相互にコミュニケーションを重ねる必要がある。時にそれは煩雑であり、また失敗のリスクも伴う。特に近年は親密圏の変容が指摘されており、「友達」−「友達」フレームの維持に力を注ぐあまりかえってそれが負担になる場合もある。
一方で「いじめ」フレームは「友達」フレームに比べて参加・維持が非常に容易だ。「いじめる側」―「いじめられる側」というアイデンティティの割り振りによって成り立つこのフレームは、「いじめる側」の一方的な権力行使とそれを受け入れる「いじめられる側」の強制的な相互行為関係を持つ。何がこの二つを分岐するのかは置いといて、この一方的な構図の中で誰しも「いじめる側」に回ればフレームへの参加は出来るし、またそこに厄介なコミュニケーションの積み重ねは必要ない。ただいじめればそれで「いじめる側」というアイデンティティを確保し、「いじめ」フレームへ参加したことになる。
この容易さ=フレームとしての強さが、いじめのなくならない原因であり、また特徴でもある。学校がクラスや部活といった数十人単位で生徒を管理することで、生徒がどうしても相互行為を求めざるを得ない環境におかれているため、生徒は何らかのフレームに参加したがる。その中でより楽な「いじめ」フレームを選んでしまうのは、そうした意味では自然とも言える。
こうした考察を踏まえると、学校側がいじめ問題を根絶するというのがいかに困難な話かが分かる。そもそも「いじめ」フレームの発生は、教師や顧問といった学校側の人間が離れることによって起きるフレーム変化の結果である。「教師」−「生徒」フレームや「顧問」−「部員」フレームが成り立っているところではいじめは起きない。物理的な空間としては確かに学校内で起きているいじめだが、相互行為空間としてみた場合それは学校「外」で起きてるも同然なのだ。
それでもなお学校側に責任を求める場合、最も現実的で最も安易、かつ最も好ましくない対策が「教師」−「生徒」フレームの最大限の強化である。早い話が学校の敷地内にいる限り四六時中教師の監視が付くのだ。授業中はいうに及ばず休み時間も昼食も放課後も全ての時間を「教師」−「生徒」フレームの中で過ごさせる。「いじめ」フレームを発生させる余地を与えないのだ。生徒の側に自由も何もないが、理論的にはそれでおそらくいじめは激減するはずだ。ちょっと前なら笑い話で済んだが今はちっとも笑えない。この先十分考えられる光景だ。
 こんな事態を避けるために考えられる選択肢は3つ。1つは「いじめ」フレームの強さ自体を減らす。だがこれは無理だ。これが出来れば20年前にいじめ問題は解決している。2つ目は「教師」−「生徒」以外で、既存のフレームを強化すること。「いじめ」フレームの強さを相対的に弱める。考えられるのは「友達」フレームだが、それは近年むしろ問題化しつつあると先に述べた。課題のレポートを書くにあたってはこの「友達」フレームの強化を採用したが、ちと無理があると自分でも思う。3つ目は、「クラス」なり「部活」なり「学校」なり、何らかのフレーム参加を求められるような環境からの離脱。これは既存の人間関係を一度リセットするのに近いので、構造的な解決にはなっていない。むしろ「自殺」はこの3番目の策を取り、かつ、離脱するカテゴリーを「この世」という最大限の広さにした場合とも言える。
だが最も現実的でかつ現に効果を挙げているであろう策は3番目だろう。クラスや学校からドロップアウトし、いきつく先は保健室であったりカウンセリング施設であったりするかもしれない。それでも「いじめ」フレームに、しかも「いじめられる側」で加わってしまうよりはずっとマシでは有ると思う。今後必要なのはこの「離脱」を容認できる周囲の環境と、離脱したその後を支えるシステム、そして最後は本人が離脱するという勇気だろう。