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シンパシーという奇蹟

Amazon.co.jp: 人間の条件 (ちくま学芸文庫): ハンナ アレント, Hannah Arendt, 志水 速雄: 本

まだちびっとしか読んでないのだが、一つ気になったワードがある。
「共苦(シンパシーとルビはふってある)という奇蹟」なる言葉だ。
マスメディアの喧伝する「感動」や「泣き」によって「共感」があふれる現代で、かなり新鮮な感触があった。まぁこの場合共「苦」なので、普通に言う共感やシンパシーとは少し意味合いがズレるのだが。
アーレントによれば、肉体的・精神的な苦しみというのは個人の中に閉じ込められているものであり、それが本当に存在しているのかどうかは、他人は客観的に検証しようがない。空腹という苦痛は個人の苦痛であり、他人がそれを理解できるのは空腹が生命万物に共通する苦しみで、他人も当然味わったことがあるだろう苦しみだからだ。
ということは、人が他人の苦しみに共感するとき、人が参照するのはあくまで自分の苦しみである。シンパシーというのは他人に共感するという形をとりながら、非常に個人的な作業なわけだ。本当に同じ苦しみ(そしてそれが同じであると証明されることも必要)を味わって初めてシンパシーが作動する。
だからこそアーレントは「奇蹟」という言葉を使ったのだが、現代マスメディアがテレビなり映画なりで振りまく感動は、もはや奇蹟の域を超えている。本当にその人が味わったことの無いような苦しみにも共感する人々は、いったい何に「共苦」しているのだろう。
思うに、彼らはシンパシーの対象が持つ物語を解体し、自分が持つ個人的な物語に照らし合わせているのではないか。そこにはシンパシーの決定的要素である「自分の苦しみと他者の苦しみが同じである客観的検証」−空腹の場合は生物学的根拠−が欠けているように思われる。感動する映画を見て、あー分かる!と泣いてシンパシーを持つ。そこにある泣ける物語を解体し、自分の体験と照らし合わせる。
だがそもそもシンパシーの対象となる苦しみが、個々人のオリジナルな苦しみを元としたシミュラークルだったら? どの人も大体持っていそうな苦しみを参照して作り上げられた虚構の苦しみであるならば、オリジナルとコピーの関係である以上、客観的検証の必要なく人々はシンパシーを持てる。逆に言えば、そうしたシミュラークルを増産することで、シンパシーも増やし続けることが出来る。

アーレントに戻れば、苦しみとは個人的な体験であり、自分の苦しみを参照するシンパシーもまた個人的な体験であろう。これらは彼女からすれば「私的領域」の出来事だ。だがそれがマスメディアを通じて無尽蔵に再生産される様は、「公的領域」のさらなる死亡証明書の一つだろう。「シンパシーという奇蹟」という言葉が新鮮で、それでいて陳腐に聞こえてしまうのも無理はないのかもしれない。