絶倫ファクトリー

生産性が高い

カラシニコフな社会で恋をする

あれこれ考えているうちに、カラシニコフ、つまりAK-47な社会というフレーズを思いついた。いや別にみんながAK-47を乱射する社会じゃなくてね。
AK-47が優れている点は、部品がユニット化されており、修理がしやすい点。かつそれぞれの部品・ユニット間の間に空間的な「遊び」が入っており、弾丸の破片やら砂埃、揺れなどに最初から対応できるようになっている。こっからは昔の新聞記事で見ただけでうろ覚えなのだが、確かカラシニコフ氏がAK-47を作った際、もう一人銃の開発を命じられてる人がいて、優れたほうを採用するという感じだったのだが、もう一方の研究者はぎちぎちの精密機械で高性能な銃を作っていたらしい。ただそれだと「遊び」がない分壊れやすく、修理もしにくい。そんなわけでAK-47が採用された、とのこと。

昨日のエントリでは、「経済性による応答」に対し、僕は

モラル信奉者の方々はこう返答してくるかもしれない。良く分からないからこそ、色んなところで色んなモラルが散らばっているからこそ、人間の多様性が保持できるのだと。「経済性」に一本化されたら、それにそぐわない人間、乗りたくても乗れない人間は全て排除されてしまう、と。

と書いたが、実際に現在モラルが運用されているとすれば、それは多様性の保持ではなくその恣意的な適用によって多様性を潰す働きしかしていないんじゃなかろうか。一方で「経済性」も、「得」のインセンティブの強さから、一定方向にするする定まってしまう可能性もある。いずれにせよ、人々の「ブレ」を許容しない方向な気がしてならない。
だから僕は、カラシニコフのように最初から「遊び」があって「ブレ」を計算のうちに入れている社会を、「経済性」によってデザインできないか、と夢想するのだ。あくまで夢想である。具体性もあったもんじゃないし。ただ自分の中のひとつの問題意識として持っておくには、悪くない気もする。

…なんか具体例思いつかないかなぁと考えてたら、ふと「恋愛」というキーワードが出てきた。
「得」の概念の中でどのような利得単位が使用されているのかによるんだけど、金銭的コスト、及び感情メンテの必要性、機会費用、等々を考えると、「経済性」の観点から見て「恋愛しない方がお得」になるんだろうか。多分実際そう思っている/実践している人もいるんじゃなかろうか。
そうすっと経済性一本でデザインされた社会(というかほとんど現代日本はそうだと思うんだけど)は、恋愛している人の方が「ブレ」ていることになる。ところがどっこい恋愛をしている人は減らないわけで。となると現状において彼ら「ブレ」ている人たちを回収しているのが「恋愛至上/市場主義」なのか。(ただこれは「ブレ」てない人たちの感情規範を侵害する恐れもあるので、もう少しスマートなやり口も欲しい)
というわけで、現代の「恋愛至上/市場主義」にぺっと唾を吐きたくなる方々は、金銭的コスト時間的コスト精神的コスト等々、色んな面から検討して「恋愛しないほうがお得」なことを証明すべきだ。そうすると、彼らはシステム上「ブレ」てない人になり、「恋愛至上/市場主義」はシステム上「ブレ」た人たちを回収するシステムの一環だという見方を持てる。どっちかがシステムからあぶれてるのではなく、両者ともにシステムにきちんと乗っかれてることになる。うーん、どっかダメな気がするけど、まぁいっか。