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絶倫ファクトリー

生産性が高い

無断リンクとテキストサイト

無断リンク論

無断リンク絡みの話を追っかけていたら意外と面白かったので追記。

無断リンク云々の話ってどこかで見た記憶があると思ったら、3年ほど前に終焉を迎えたと思われるいわゆる「テキストサイト」界隈の話だった。ブログがこれだけ席巻する前から、日本には独自に「ウェブ日記」を付けるサイトがあって、それらが独自の文化圏を形成していた。有名どころだと「侍魂」とかなんだが、あれはブームの火付け役というかそれまでの文脈から言えば特異な例であった気がする。侍魂は自分のネタ一本で外野から閲覧者を獲得できたが、そうでないテキストサイトももちろんあって、そしておそらく多数派であった彼らは「相互リンク」なるシステムによって閲覧者の多くを獲得していた。
そこではリンクはサイト同士の関係性を示す「重い」ものであり、リアルの世界における人間関係みたいなものだった。他人のサイトを自分のところにリンクするという行為は、閲覧者を「分ける」という行為であり、特にアクセスの多いサイトに対してリンクを張ってもらうのは「お願い」することであり、そこにはサイトにおける関係性の上下が現れていた。逆にあるサイトを批判しようとして、批判文の中にサイト名を入れて直接リンクを張るのを「文中リンク」とか言って悪しき行為としていた例もあった。いずれにしてもリンクは関係性の象徴であり、自分と他人との「繋がり」という身体的な感覚のイメージでもあった。だからそこでは「無断リンク禁止」という文句も、身体的な実感を持って同意を得られたのであった。
現在の無断リンク禁止論はそうした身体的な実感によるところが大きい気がする。リンクやブログを公道の話や土足で人の部屋に上がる話などに例えてはいるものの、結局既存のシステムを使ったアナロジーにしか頼っていない。それまで身体が覚えていた感覚的なモラルやルールの延長線上にリンクを配置するのは、身体的な「繋がり」のようにリンクを扱ったかつてのテキストサイト界の論調と似ている。そういえば素朴に無断リンク禁止!を唱えてらっしゃる方のブログで、「ネチケット」なるもはや死語だと思われるような言葉を見た。死語と言ってもこの言葉の意味自体が無効になったのではなく、ネットの使用が広く普及しきって「ネットの世界におけるマナー」が「インターネットというシステムにおけるリスクおよびその回避法」に変換されてしまったからだろう。ここには重要な変化がひとつあって、マナーというのは人と人との関係性において求められるものであるけれど、リスクの回避というのは完全に自分本位のレベルであって、自分がいかに危険な目に遭わないようにするかという話である。結局ここでも「関係性」というキーワードは捨象されており、ネットは単なるシステムとして解釈されている。
そしてこうしたネットの使用を広めた最大の功績者たるブログそのものが、システムとしてのネットを最大限に生かそうとしたデザインだったのはまた皮肉な話でもある。エントリごとにURLを付け、コメント機能はおろか「逆リンク機能」トラックバックまで装備したブログは、完全に「見られる」ことをシステム上当然とみなし、推奨するデザインである。
つまるところ言いたいのは、リンクはネットというシステムの一機能にしか過ぎないということだ。「当たり前だ!」と言う人も多いだろうが、少なくとも数年前の日本人−中でもネットで日記を書いていたような人たち−はそうは解釈していなかった。かくいう僕もテキストサイトにハマって自らもその真似事をしたクチなのだが、その当時あったようなネットの神秘性が今はすっかり消えている。ネットでしか表現できないこと、ネットの世界にのみ存在する世界観、そうした世界観に基づいた規範やその論争。昔はテキストサイトが自分のところに広告を載せたりすれば叩かれたりしたもんだが、今ではそんなの珍しくもなんともない。みな気づいたのだ。ネットはリアルにない世界を見せてくれる場所ではなく、リアルの中の単なるシステムだと。「アクセス乞食」などという言葉を美的文脈でもって振りかざすより、自分もアフェリエイトやったほうが儲かるシステムなんじゃん?じゃいいじゃん。やっちゃおうよ。
結局のところ例の「生活世界がシステムに侵食される」というsak氏が残した言葉につながるわけだけども、個人のサイトやブログを家に例えてそこに土足で踏み入るのを無断リンクだと例える話などまさに文字通り生活世界である。ただこの話で皮肉なのは人の家に土足で上がるのを嫌がるのは日本人くらいなもんで海外では普通だ。そしてブログはアメリカからやってきた。これで十分な気がする。システムなのだ。機能なのだ。いまさら無断リンク禁止!と声高に叫ぶ人は、アメリカの家で「土足で上がるな!」と叫ぶことに等しい。文化の差?それは「システムとしてのネット」という文化を受け入れるかどうかであり、世間はそれを甘受どころか積極的に活かす方向で動いているのだ。もう遅いのである。