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絶倫ファクトリー

生産性が高い

郊外の展望

明日から本格的に今年度の授業が始まる。ので、ここらで3年次になる上での展望見たいのを書いておこうかと思ったのだが、うっかり面白そうな本とその書評(正確には書評を先に見つけた)を見つけてしまったので、昨年度の総括と言うか、続き物として一つ書いておく。

昨年度はゲーテッド・コミュニティにスポットを当てて、都市について少しかじってみたのだが、最後の最後で面白そうな本を見つけた。

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

そして以下書評。

Passion For The Future: 郊外の社会学

ところでふと思ったのが、「住宅」はソフトなのだろうか、ハードなのだろうか。従来の考え方でいけば、対比させるものによってソフトにもなりえるし、ハードにもなり得る。住宅の中に住む人間をソフトとして考えれば、住宅はハードになるし、その住宅を取り囲む地域コミュニティをハードに考えれば、単一の住宅はソフトとして扱われる。*1だから、住宅は文脈によってソフトにもハードにもなりうる、ソフト/ハード的な存在であった。
ところが、ゲーテッド・コミュニティはセキュリティという固定的な文脈によって、住宅を頑としてハードの位置に固定する存在であると言える。元々家の中に住む人間にとってはハードである住宅だが、ゲーテッド・コミュニティは、高い壁と門、高度な物理的セキュリティによって、それ自体を「地域コミュニティ」に置き換える。もしくは、一つのゲーティッド・コミュニティの存在が、同じ地域のそれ以外のセキュリティにも影響を及ぼし、結果としてゲーテッド・コミュニティがその地域のハードになる。

ところで、近年続く都市部の再開発は、郊外にまで及んでいる。郊外が今後「再開発」され、新しい「郊外」になるとき、そこにはどんな住宅地が立ち並ぶのだろうか。現在の郊外が誕生したときのような、「金太郎飴のような」ニュータウンだろうか、それともデザイン重視のデコレーションハウスだろうか。
おそらくどちらでもない。そこに現れるのは日本版ゲーテッド・コミュニティであり、セキュリティによって他の物件と差異を設けた、要塞型の物件だ。ソフトの要素を排した、ハード/ハード的な存在となった住宅である。
そして書評の「全国各地に、地域性が消去された、金太郎飴のような同質の郊外文化が量産されていくのか。」という問いにあえて答えるとすれば、そこに存在するのは、金太郎飴のような均質な文化ではない。なぜならゲーテッド・コミュニティ内で発生する文化は、「地域を超えたメディアや大衆消費文化の影響を受け」た文化ではなく、もっと身体の安全性に依拠した、動物的な文化だからだ。同時に、そうした文化にある人々の間の距離感も、「マスメディアとの距離感」ではなく、セキュリティを通して計る、身体的な距離感である。
そうして、金太郎飴のように均質的な文化に変わって登場するのは、各々のゲーテッド・コミュニティが規定するセキュリティの範囲内での、独自の文化である。その地域がどこまで安全なのか。本当に家の中(あるいはそれすらも)危ういと感じられている地域なのか、それともゲーテッド・コミュニティの領域の中なら安全だと思われている地域なのか、もしくは門と塀の外でも安心を確保できている地域なのか。ハード/ハードと化したゲーテッド・コミュニティが規定する、その地域のセキュリティレベルによって、その地域で育つ文化が変わってくるのではないか。

*1:ちなみにここでいう「ソフト」「ハード」は、ハード⇒ソフトという影響力の非対称性に重きを置いた意味合いとして使っている