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「郊外の社会学」(改変)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

4/21  改変 

アマゾンのレビューにも書いたのだけれど、この本は無理矢理「動ポス」的に読んでしまって、ポストモダニズムからの定点観測した本として考えると読みやすいのかもしれない。

地方出身者の「近代的な生活」への憧れと、都市出身者の「都市にはない理想的な生活」の憧れを一手に背負い込んだ「郊外」。そこに核家族という新しい家族像への期待も重なり、郊外は「大きな物語」としての機能を持つようになる。(筆者は「神話」と呼んでいる)
ところが1980年代以降、「郊外」が一般化すると、そうした「大きな物語」としての機能は失われる。郊外都市の建築様式が画一的なモダニズム的デザインから、装飾的なポストモダニズム的なそれに変わり始めたのもこの頃からだ。それはどこかで見たような「地中海風」とか「スペイン風」といった記号を消費する、データベース的建築様式でもある。
こうしたポストモダニズムへの移行は建築様式を超えて、人々の行動様式にも影響を及ぼす。「郊外」の外、つまり郊外に来た人々の故郷にあったはずの「祭り」は、郊外でも様々な形で再現されるが、それは結局そこで行われる必然性のない「記号的」祭りである。なぜならそこに集まる人々も、そこにいる必然性はなく、年収や職場の場所といった郊外の持つ要素に合致したから「たまたま」そこにいる存在だからだ。筆者はそうした人々の集まる性質を「共同体」ならぬ「共異体」と呼んでいる。
「郊外」に対する批判の多くは、この「共異体」の持つ性質への批判に近い。しかしそれは郊外に住む人々が、こうありたいという望みをかなえた結果でもある、と筆者は指摘する。ポストモダニズム的に記号を消費し、今の「郊外」を作っていったのは、結局そこに住む人々が望んだ結果であり、「動物的」に志向した結果であるといえるだろう。

しかしこの本、新書でやるにはもったいない気がしてきた。もっと既存の社会学・現代思想の用語を使って、学術書として出して良い。もっと深く、学術的に「分かりやすく」すれば、高くても買う人は買う。少なくとも僕は買う。