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絶倫ファクトリー

生産性が高い

新しい「規律」の形―「異常」の感知から「正常」の構築へ

監視カメラ

従来の監視カメラの機能

新しいタイプの監視カメラについて*1
東京新聞:ページが見つかりませんでした(TOKYO Web)
これについてのエントリ
2007-05-01 - 【海難記】 Wrecked on the Sea


従来のこうした繁華街に設置された監視カメラは、
1.通りに設置されたカメラを通して人間が監視し、「問題があると判断された」行動を見つけた場合に対処するか、
2.もしくは無人で単にぐるぐる回したまま、何か事件があった際証拠として活用するか
のどちらかだった。

まぁどちらも目に見えた活躍をするのは実際に「問題」が起きた後である。にもかかわらずこうしたカメラが「防犯」を名乗れるのは、ひとえに監視カメラがあること(そしてそのことが分かること)によって、その監視カメラの視線を内面化し、犯罪を未然に思いとどまる「規律訓練」の効果を期待しているからである。
この場合、何が監視カメラの前で行っても良さそうで、何がまずそうか、つまり何が監視カメラの中の人が「異常」とみなし、カメラの前で行うのを控えるべき行動なのかは、これまで各々の経験によって築かれた「法律」「モラル」に基づく。想定されうる「異常」の範囲を経験的に想定し、それを人々が避ける形で監視カメラは「防犯カメラ」になりえていた。

今回の監視カメラの機能

ところが。今回登場したカメラはその逆である。「異常」かどうかを判断するのは人ではなく蓄積されたデータベースであり、しかもそれは異常行動のデータベースではなく「正常行動」のデータベースである。統計学的に「正常」と思われる行動から外れたものが「異常」と判断される。
ここで重要なのは、従来の監視カメラによる規律訓練は、参照する規範を既存の「法」「モラル」に準拠していたのに対し、新型監視カメラが作り出す規範は「データベース」に依拠している点である。
もしこの新型監視カメラについての情報が、まったく秘匿されていたならばそれは今までの監視カメラと変らなかったかもしれない。しかしこのカメラが「データベース」を参照するカメラだという情報がオープンになった時点で、これは新しい効果を生み出す。人々はカメラが参照しているであろうデータベースに書き込まれた「正常」を想定し、そこから外れないような行動を取る。
従来型のカメラを「変なことしたやつはぶっとばす」というポリス的側面を持っていたのに対し、今回の新型カメラは「正しいことしてくれてれば何もしない」というノルム的発想である。

「自己準拠」という新しい規律

新型カメラに問題があるとすれば、この新しい規範を作り出す「データベース」の中身についての非対称性である。*2「防犯カメラ」を名乗る以上、何が正常な行動なのかという詳細な中身は知られてはいけないはずだ。なので当然データベースの中身についてはそれを知るもの/知らないものが出てくる。ただもしこうした新型カメラが普及した時、果たして何が正常なのかを知らないと、自分が正常と思っていた行動でもうっかり通報されかねない。*3
そしてこの新型カメラは何が「正常」かを順次学習していく機能を持つ。過去「正常」であった行為も、今はその限りでないかもしれない。とすると準拠できる「正常」は、カメラの目の前にいる「今現在の自分」の行動になる。しかし今現在の自分が準拠しているのは、カメラに映っていることを想定している自分であり、その自分は「今現在の自分」の行動を参照し…と、テレビカメラでテレビを映したときのような無限循環が発生する。つまるところ、この新型カメラはそれ自体、「自己準拠」という新しい規律のスタイルを作り出す装置でもある。

議論のベースは効率性

今回のように駅前の繁華街につけられたところで、それはたいした効果は生まないだろう。ただこの東京新聞の末尾にあるような「介護現場や人手不足の工場」に設置されたとき、そこには今までとは違う規律が発生するのだろう。そしてそこで巻き起こる議論は、それが善か悪かでなく、効率が良いか悪いかの議論に終始するに違いない。この新型カメラも、そうした効率性の議論に基づいて出てきたものだろうから。
ちなみに僕は監視カメラを悪だ!権力だ!と叫ぶつもりは毛頭ない。もはやそうした範疇を超えたレベルで広まっている。

*1:ちなみに酒井隆史「自由論」を参照すれば、このタイプの規律訓練は外国ではすでに存在しているため、あくまで日本の実用レベルでは新しい、ということに留まる。

*2:もちろん、このデータベースの機密性をめぐって新しいリスクが発生することも含む

*3:もちろんそれは従来のカメラにも言えたことであるが、地域の防犯・安心を謳うカメラが増えた今、そうした監視する側の恣意性はほとんど文脈に上らない