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「嫌なニュースは見ない」の危険性

嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢 | Lifehacking.jp

↑のタイトルにある「嫌なニュースはそもそも見ない」というのは、エントリにもあるように「悪いニュースの洪水に流されて、感覚が鈍化するくらいなら、テレビのニュースくらい切っておこう」という意図で、ブログ全体の様子からしてもそこまで気勢を上げて心地悪いニュースの遮断にこだわっているわけではなさそうだ。

ただこうした意図を噛み砕かずに、その手段だけを丸呑みすることは、結果としては「悪いことから目を背ける」ことと変わらない。
引用されている生徒と先生の会話も、確かにソースの信憑性が担保されていない情報は「現時点では」重要でないかもしれない。だからこそ、その先に続くべき行為はその情報が信ずるに足るものか確認する作業ではないか。もちろん、殺人事件のニュースが流れるたびに逐一真偽を確かめるなんてできっこないのだけれど、「?」と思った情報には留保をつけておくという作業は大切だ。
なぜならこういう作業過程がないと、ただ「悪いことから目を背ける」ことは、逆に言えば「背けなかった/られなかったものは丸呑みする」という行動に繋がりかねないからだ。防御壁を築くと、それをスルーしてきたものに対しての抵抗力は低くなりがちだ。悪いニュースというカテゴリで大きく括って遮断するよりは、良い(と思われる)ニュースも悪い(と思われる)ニュースも、良い悪いの価値判断を下す前に、保留をしたり別の視点から見るということを心がけるべきではないかなぁと思う。*1

情報の取捨選択、というか趣向に基づいた遮断は、メディアの技術的な進歩と不可分の問題であり、ここで1エントリ書いて済まされるものでは到底ないのだけれど、ちとはてブのコメント欄がナイーブではないかと感じたので、書いてみた。

*1:もちろん、「そんなことしてたら疲れちゃうよ!」って人はいるだろうし、たぶん上記のエントリはそういう人のために書かれたものなのだろうけど