絶倫ファクトリー

生産性が高い

音楽とアウラ

アルバムを無料配布したPrinceの戦略(1) « WIRED.jp Archives

最近感心したエントリがこれ。
要はプリンスが自分の最新アルバムをタダで配り、その後行われるライブでペイしよう、という作戦に出たという話。

Princeの新戦略が成功しているのは、このデジタル時代に価値を失いかけているのは楽曲そのものではなく、そのコピーだということを認識しているためでもある。アルバムは、発売から時間がたつほど、友人のCDにせよ、見知らぬ他人の共有フォルダにせよ、リスナーがコピー源を見つける可能性が高くなる。だが、そうしたコピーの価値がどんどん低くなれば、最終的にはオリジナルのみが価値を認められる。PrinceがMail on Sundayに売ったのは、まさにこの「コピーの発信源になる権利」だ。

コピーが氾濫することで、オリジナルの価値が下がる、というのがこれまでの音楽や映像についての通念であった。ところがここでは、「コピーが氾濫することで価値が下がるのはコピーである」という大きな転換がなされている。確かに、オリジナルがオリジナルと認識される限り、コピーがコピーである限り、増え続けるコピーは価値を下げ、相対的にオリジナルが価値を上げていく。ただしこの「オリジナルがオリジナルと認識される限り」というのが問題で、文中にも「コピーの発信源になる権利」という言葉が使われているとおり、何がオリジナルなのか、という定義の問題に悩まされることになる。


この限りで言えば、ショップで買ったCDも、winnyで手に入れた音楽データも同じコピーである。プリンスはライブという形で「コピーの発信源」たる価値を維持しているが、これはライブという形式の「一回性」、つまりアウラに拠っている。音楽を観客の前で生で流し、生の声を聞かせるというのはさまざまな意味で一回性を有しており、これは有効であろう。
ところがこうした戦略の先にあるのは、「誰がアウラを持つのか」という、一回性の奪い合いである。確かにライブは二度と同じ雰囲気は作れない、ゆえにアウラを持つ。ではそのライブを録画した映像が一度だけTVで配信されたら?それを録画したデータが一度しかコピーできなかったら?


いずれこのアウラをめぐる戦いは、メディアのテクノロジーによる囲い込み合戦になるだろう。いずれ、というか、すでに顕在化した問題であるコピーワンス問題(9回までコピー可になったが)は、こうした「技術によってアウラを囲い込む」という観点から「ずるさ」を感じる面がある。「そのアウラは本来お前のものではないだろう?」と。