絶倫ファクトリー

生産性が高い

コンビニについて―感想

日曜日、サークルの仕事をほっぽりだしてCSFに参加した。今回はコンビニ特集。ほとんど僕は話を聞いてるだけだったのだけれど、いくつか気になったことがあったので書いておく。

店員/客の結節点としてのPOSシステム

コンビニを社会学的に捉える、としたときに、まず始めに「労働の場」としてのコンビニと「消費の場」としてのコンビニは分けて考える必要があるのではないか。昨日の議論の中でも、それぞれの立場で非常に興味深い話が展開されたのにも関わらず、それらが綺麗にクロスする点が見つからなかった。(ちなみに僕は労働の場としてのコンビニは体験したことがなく、知識もないので、専ら消費者の側から見たコンビニについて書かせていただく。)
働く側と消費者側が交わらない、というのは何も言説の上だけでなく、実際のコンビニにおいてもそれは顕著である。というかそれがコンビニをコンビニたらしめる要素の一つでもある。コンビニの店員/客の徹底した非接触形態というのは、実に様々な言説を呼び出しうる。
まずコンビニのアルバイトが、ヒエラルキー的に低いという点。最近はコンビニのバイトを募集してもなかなか集まらず、来るのは外国人留学生と高齢者ばかりという。それは他のアルバイトがその専門的な光景(例えばTSUTAYAの展示や内装をバイトの人間が充実させる)を利用し、「やりがい」「自己実現」などのイデオロギーを発揮できるのに対し、コンビニは自己実現なるものを計れるだけの熟練労働がない。*1それは様々なものがマニュアル・自動化され、あたかも自動販売機の中の人のような労働形態だと思われているということではないか。
次にPOSシステム。徹底した非接触の中で、唯一店員と客をつなぐものが、POSシステムである。POSシステムからはじき出された顧客の購買動向というメタデータをもって、店員は「客」なるものがどんなものなのかを把握できる。昨日の議論の中で、発表者の新さんが「コンビニを語る時、POSシステムが語られるのが必然であるかのような事態に対する疑問」を述べていらっしゃったが、POSを店員/客の唯一の結節点だと考えるなら、それも致し方ない気はする。*2

コンビニと自我

また議論の中でコンビニと自我の関係性について出てきたので、それも少し。
僕がコンビニを利用するとき、動機としては二点あって、大きなスーパーなんかで買い忘れたりした生活必需品を買いに行く時。もうひとつが何か新しいものがないかと思ってふらっと立ち寄ってしまうときである。いずれの理由も、僕だけに顕著なものではないだろうし、データの中にもこうした理由が多数を占めていることが書かれていた。
自我を語るとき、まず自我とは何かについて語らねばならないのだが、ここでは簡潔に自己を対象とした認識としておく。その上で話を進めると、コンビニというのは自我にとって最も遠い場所にあるのではないか、と思う。
なぜならコンビニに「何か新しいものがないかと思って立ち寄った」結果、その新しい何かを買ったとき、おそらく多くの人がそのことを後々まで覚えていない。たとえ家計簿みたいなものをつけていても、「新しい何か」として認識された商品は、それを並べたところでおよそ一貫性は持たないはずだ。ふらっと立ち寄り、「新しい何か」を「偶然」見つけた喜びに購買意欲が刺激され、なんとなく買ってしまうという行為は、自己をメタ視した認識としての自我からは程遠い。むしろコンビニを含めた資本主義経済の中で「新しいもの=いいもの」というコードを植えつけられ、立ち寄った先のコンビニでそれを刺激されて買うという行為は、一種の動物的な行為に近い。「新しい何か」を「偶然」見つけられた喜びを瞬間的に味わう、刹那的な行為である。

コンビニと主婦

議論の最後に出てきたのが、コンビニと主婦の関係である。コンビニは主婦が行きづらい場所として認識されているという話だったのだが、では翻って行きやすい場所とは何かということになる。個人的にはコンビニは実に行きやすい場所なのだが、それはどこのコンビニに行っても自分と似たような人間(男性/若者)がいるからだ。主婦が行きづらい、というのは、そもそも主婦がいないからさらに行きづらいという循環を起こしている気がする。
では何故主婦がいないのか?まず思いつくのは単純にコストパフォーマンスの問題である。一人ぐらしの大学生ならともかく、旦那と子供の日々の生活を考えれば、食事は大型スーパーで食材を一気に買って一気に作った方が一食あたりのコストは圧倒的に安い。コンビニ弁当では割りが高すぎる。お菓子も飲料もスーパーで買ったほうが安いし品揃えもある。
ただしここで問題になってくるのが、「主婦はベストのコストパフォーマンスで買い物をしなければならない」というコードである。確かに費用対効果の効率は悪いだろうが、忙しかったりしてコンビニ弁当の方が手間がかからないこともあるはずだ。しかしコンビニに主婦はいないし、「出来合えで済ましている」ことに対する悪いイメージもあり、手が出ない。さらに消費者側の意識としてだけでなく、コンビニの本部で仕事をなさっていたことのある遠藤さんの話によれば、コンビニの商品を打ち出す経営側も、主婦はターゲットとしていないという。主婦は消費者からも経営者からも、「ベストのコストパフォーマンスをすべし」というコードによってコンビニから排除されている存在と言える。おそらく議論の中でコンビニと主婦の関係を問うた方は、そのコードの自明性に対する疑問を投げかけたかったのだろう。
ただし、「安い食材を買っていっぺんに作った方が安上がり」というのは、厳然たる事実であることも確かだ。だから、疑問を投げかけるべきはそれを何故「主婦」なる人間が、というより何故それを行う人間が「主婦」と同定されるのかという点にある気がする。ここら辺はジェンダー論になり、僕は論じられる武器を持っていないのだけれど、面白い視点ではあると思う。

*1:というより商品発注の際にはむしろ消費者的感覚、素人さが要求されるという。

*2:ただしそうやってつかんだ顧客の購買動向ですら、あくまでも過去の履歴でしかないとされ、実際に未来の購買動向を読み取るのは、店のオーナーや店員の勘だったりする。本当にコンビニというのは店員/客の接触がない場所である