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「生きる意味」を問うということ

このブログだと都市社会学系のことについてばっかり書いてるのだけれど、実は大学の授業では他にゼミっぽいものとして医療社会学の調査実習の授業も受けている。実習と言っても、闘病記を読んでそれについて考えるという形式なので、病院に行って何かを聞くというスタイルではない。

実習という扱いなので、学年の最後にはゼミ論もどきを書かねばならない。先日、今後の方針というか最終的にどういう問題関心があるのかを授業中に皆の前で言わされるという羞恥(周知)プレイが発生したのだけれど、そこでうっかり大風呂敷を広げてしまって割りと大変な状況に陥っている。それは突き詰めて言えば「生きるって何?」みたいなアホみたいに壮大な問いである。

なぜそんな大風呂敷を広げてしまったのかというと、まず一学期二学期を通じて授業で展開されてきたことと関係がある。この実習は「病と死の社会学」なる授業とペアで進んでいて、授業の方ではALS患者を取材したドキュメンタリーやドラマ「1リットルの涙」なんかを見たりして、「生きる意味とは何か」みたいなことを考える。実習でも、西川喜作という前立腺がんに冒された精神科医を取材した柳田邦男の「『死の医学』への序章」なんかを読んで、「病によってそれまでの自己が瓦解した人間が、いかに『生きる意味』を闘病の中に見出し生きる糧とするか」というプロセスを見てきた。西川喜作氏は、闘病記を書き、「死の医学」を確立することを目指し、その完成及びそこにたどり着くための努力を「生きる意味」としていた。彼だけでなく、一般的な闘病記に出てくる人々は何かしらの「生きがい」みたいのを見つけ、それに力を注ぐことで「生きる意味」を獲得し、余生を輝かせたという風な記述になる。
いずれにしても、難病にかかったりして先の見えない闘病生活を送り、それまでの自分がまったく保持できなくなった人間が、どのようにしてその後の人生を意味あるものにしていくか、そしてその闘いがいかに感動的かを描いたものであった。

そうしたものを見る過程でふと僕が疑問に思ったのは、その「生きる意味」を見つけられない・獲得できない人間の生はどこに行くの?ということだった。闘病生活を送った人の中でも、いわゆる闘病記として出版され世間に出た人の人生というのは、自ら努力し、自ら生きる意味を見つけ、自ら生きる意味を獲得しようともがいた人たちの記録でもある。しかし闘病記にならない、また闘病記になったとしても決してそんな風に何か意味なるものを獲得できたわけではない人たちの人生というのも、また確実にどこかに存在したはずである。そして一般的な闘病記の中で見られる「生きる意味」メソッドに従えば、後者の様な人生はまったくの無意味である。

みぽりんのえくぼ

みぽりんのえくぼ

たとえば文献として最初に選んだこの本。「みぽりん」とは岡田美穂という14歳の女の子のことであるが、彼女は脳に腫瘍が見つかり、若くして闘病生活を送るようになる。彼女はその年齢の低さから自らの病気のことを詳しく知らされず、自分が死ぬのかどうかも知らないまま、最終的には亡くなった。前述の「生きる意味」メソッドは、まず自分が死ぬかもしれないという認識を持ち、余生がどれくらいかということをある程度把握し、その余生をいかに濃密なものにするかという計画を立て、実行することを要求する。そうしてようやく「生きる意味」なるものが手に入るのである。しかしこの岡田美穂という女の子は、自分が死ぬかもしれないということを知らされず、したがって余生をメタ的に見る機会もなく、何かを書いたり行動したりすることに「生きる意味」を求めることもなかった。一応彼女は絵が好きらしく、絵手紙のようなものを絵の具で書いていたのだが、これも父親によって半ば強制的に与えられたものである。ここで発見されるのは「生きる意味」というより、外部から与えられた「生きた意味」である。そして「生きる意味」を獲得することが最上とされるメソッドに従えば、彼女の生はまったくの無意味である。

もちろん僕は「彼女の死が無駄死にだ、生きた意味なぞ無い」とは思っていない。そんな風に、闘う能力の無い者の生を簡単に「意味のない」ものにしてしまう、「生きる意味」メソッドを脱構築したいと考えている。そしてそれに代わる何かオルタナティブを提示したいと考えている。
だから冒頭の「生きるとは何か」とかいう壮大な問題にたどり着いてしまったわけなのだけれど、さすがに僕も徒手空拳でそんなでかい問いを引き受けようとは考えていない。とりあえず補助線を引いてみた。
「生きる意味」メソッドの問題点は、「生きる意味」を獲得するのに何から何まで自前でやらねばならない点ではないかと思う。末期がんやALSにかかった人間にとって、自分が死ぬかもしれないということを認識するのだけでも大変なのに、残りの人生を概算して、余生を意味あるものにするための計画をたて、ひたすら実行するというのはあまりに敷居が高すぎる。そりゃ本も出版されるよって話である。
だから、別に外から出来合いのものを引っ張ってきて、それを取り込むことで自分の「生きる意味」としてもOKってことにできないかと考えている。それだと厳密には「生きる意味」メソッドを脱構築できていないじゃないかと言われるかもしれない。だが「『生きる意味』メソッドは能力の無いものの生を無意味にしてしまう!決まりきった「死に方」を強制する!」と非難することは簡単だが、それはそれで言いっぱなしになってしまう可能性がある。どうすりゃ良いの?といわれた時に、単なる脱構築をして見せるのではオルタナティブを示したことにはならない。「生きる意味」メソッドも利用できる部分は利用しつつ、使える人の範囲を最大限に広げられないか、という話である。

「外部から『意味』を持ってくる」という発想の答えは、おそらくひとつではない。小児がんにかかった子供が、両親のために必死に闘病するというのもある意味では外部に「生きる意味」を見出す行為のひとつだろう。闘病記を書く気力も無い、何か特別なことをして名を残す能力も無い老人が、宗教にすがって何かしらの意味を見出すのもまたそのうちの一つだろう。
あと直感だが個人的に使えそうだと考えているのが「記憶」と「記録」である。末期がん等にかかって闘病者となった者を襲う最初にして最大の苦痛が、病気に伴う身体的・精神的苦痛が引き起こす「自己物語」の崩壊である。第一線で働く社会人、子供の面倒を良く見る親、そうした「私はこういう人間です」という自己言及的なアイデンティティが、病気によって維持できなくなる。そうしたときに、他人が持っているその人に関する「記憶」ないし「記録」でもって、「あなたはこういう人間です」というアイデンティティを付与できないか、ということだ。
もちろん、そんな他人から押し付けられた「私」など本当の「私」ではないと言われるかもしれない。そこから本当の自分探しをするだけの余裕がある人はすれば良いだろう。だが今僕が問題にしたいのはそれすらままならぬ人の生をどうやって肯定するのかという点であり、努力などという言葉では解決し得ない領域の問題である。

この「記憶」や「記録」がどこまで説得力のある「私」を形作れるのかは全く未知数であり、全然無理かもしれないし案外いけるかもしれない。ただとりあえずのところ探ってみる価値はあるのではないかと思っている。