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絶倫ファクトリー

生産性が高い

 mixi/twitter―「繋がりたい」ではなく「知りたい」という欲望

mixi論 twitter論

もはや「ウェブ2.0」は「ウェブ2.0(笑)」に変わり、記号としては耐用期間を超えてしまった感がある。けれどそれは単なるマーケティング用語ではなく、いくつもの「カタチ」になってそのコンセプトは生き続けている(と信じたい)。

mixiが単なる日記の見せ合いサイトにならなかったのは―つまりSNSSNSたる理由でもあると思うのだが―更新された友人の日記・コメント欄を強制的に画面の上部に上げたり、足跡機能をつけたりと、閲覧蓋然性を高めようというデザインが組まれていたからであった。
かくて人々の毛づくろい大会会場となったmixiは、その機能を昇華させるべく、つまり毛づくろいするためのネタを提供すべく、写真や動画、音楽履歴などの共有機能を搭載し始めた。そこではそういったデータの公開・閲覧という行為は、そのデータにアクセスすることよりも、アクセスした後のコミュニケーションに重点がおかれる。
このようにしてmixiが次々とコミュニケーションの「ネタ」を投下することは、翻ってmixiがコミュニケーションに「ネタ」を介在させることの必要性を重視しているということが伺える。
だが一方で、日記・足跡・写真・動画・レビューという風に「ネタ」の種類が増えれば増えるほど、人々の興味はバラバラに拡散し、それぞれの興味がクロスする=コミュニケーションが生まれる機会は減る。

そしてそれとは全く逆の進化(というか「進化しない」という進化)形としてtwitterは現れた。少なくとも僕の目の前には。
twitterの機能はきわめてシンプル。mixiのように更新した日記のタイトルが上がって、そこにリンクがあって・・・とかめんどくさいことはしない。人の更新内容全てを無理やり見せる。いやだったらその人とは関係を切ればいい。以上。写真も動画もレビューも基本的には想定していない。ただ140字以内の「つぶやき」をひたすら垂れ流す。そしておのおのは「この人の言葉の垂れ流しを見たい」という人を選ぶ。
twitterの「ネタ」は、「その人が何を言ったのか」という、実にラディカルな一点それのみである。「お前は誰だ?」という問いに、140字以内の言葉の束のみによって答える。それでしか答えられない。だからそこで喚起される欲望は、誰かとコミュニケーションをとりたい、「この人と繋がっていたい」というよりもむしろ「この人がどんな人か知りたい」という一方的な欲望である。そしてその過程には、予期しなかった発言に出会うこともあるだろう。むしろそっちのほうが多いだろう。mixiがコミュニケーションそのものを目的化し、そのための「ネタ」が比較的予定調和的なものになりがちなのに対し、twitterはこうした点で「不意の出会い」の機会が多い。

ウェブ2.0が「ソーシャル」で「繋がる」ことをラディカルに志向していった結果、繋がる先は似たもの同士で、偶然性が縮減されていくという傾向にあったような気がするが、twitterはむしろ「知らないもの」に対して「知りたい」という欲望を喚起する構造になっている。
是非twitterはこのまま何も足さず引かず、そのままの形でいてほしい。世の中が「ウェブ2.0(笑)」的なものを志向すればするほど、twitterはそのユニークさがより際立つ結果になるだろう。そしてより価値あるものになっていくだろう。