読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

絶倫ファクトリー

生産性が高い

 Lifeトークイベントを聞いて―「やってみよう」の可能性と危険性―

文化系トークラジオ Life

文化系トークラジオ Lifeの書籍化を記念して、今月の11日に番組のパーソナリティたちによるトークイベントが行われた。その内容を聞いての感想。とりあえずお時間のあるかたはLifeのページに飛んで内容を聞いていただきたい。僕が言及するのはポスト「失われた10年」に語るべきこと~Part4 (文化系トークラジオ Life)だ。

気になった箇所ー「身の回りから変えよう」運動

きっかけは、サブパーソナリティの森山さんの発言。

森山:「例えば、政治に参加する『参政』って言葉ありますよね。この『参政』ってのが、選挙で一票投じるだけなのかって。もう選挙で一票投じることが効力がないっていうことがね、そういう意味で政治は変わらないってのが、身にしみてしまったというか。じゃあ僕らがどうやったら少しでも自分の今の生活を変えられるのかって言ったら、潰れてほしくない豆腐屋で必ず豆腐を買うとか、その延長線長でしか、自分の身の周りを少しずつ変えることでしか、大きな体制は変わらないんじゃないか」

そしてこれに続いて森山さんはオウムや連合赤軍の話を出し、「彼らは大義を掲げて社会を変えようとした。でも僕は、日常生活の延長線上でしか考えられないし、大義と身の回りがかけ離れているのはダメ」という趣旨の発言をする。

この後Charlieやその他の参加者から、「そうした身の回りから変えようという『運動』も、必ずしも変えたい方向に変わるわけじゃないよね?」みたいな突込みが入る。

そして続けてCharlieが「けど、変わらないかもしれないけど、『いつかもしかしたら変わるかもしれない。だからとにかくやってみよう』っていう一種の連帯感を生むことも『運動』のメリットだよね」という趣旨の発言が入る。

それに対して佐々木さんから、「それってメシアニズムだよね。でもメシアニズムって「それって嘘なんじゃない?」と懐疑的になる人もとりあえず信じないといけないシステムになってるから、つらい人もいるんじゃないか」という突込みが入る。

何が気になったのか?

で、この場での内容では、「身の回り、つまり小文字の政治から始めて、それが大文字の政治に繋がれば良い。たとえ繋がらなくても、『もしかしたら何か変わるかも』という信念を共有することが大事じゃないか」みたいな話が、割と肯定的に捉えられている。
僕はこの流れを聴いていて、面白いなと思いつつ、しかしやっぱり危ないなという印象も同時に受けた。それはシニシズムの問題である。上記の概念は、「何か変わるかも」というメシアニズムを抱きつつ、一方で(変わらないかもしれないけどさ)という括弧付け、つまりシニシズムを要求する。「信じてないけど、信じたふりをする」というやつだ。
連合赤軍やオウムの人々は、「何か変わるかも」というメシアニズムの部分だけを抱き続け、シニシズムの部分が欠けていた。(変わらないかも知れないけどさ)という括弧づけがなかったのだ。
シニシズムの欠落したメシアニズムは、暴走の危険を孕んでいる。*1その暴走は、小文字の政治がきちんとしたプロセスを経ぬまま大文字の政治に回収されることだとも言える。まず身の回りに対する小さな不満があり、そこに「こうすれば世界は変わる。君は救われる」という大文字の政治が一足飛びに提示される。そうすると、(変わらないかもしれないけど)というシニシズムが用意されぬまま、小文字の政治は大文字の政治に回収され、「何か変わるかも」というメシアニズムだけがベタに読み込まれる。それは一言で言えば暴走だけれど、信じた当の本人たちにとっては不幸でもある。結果として彼らは、自分たちが初めにしたかったこととはまるで違うことをさせられ、しかもそのことに気づかない。最初は身の回りの不平等・不条理が許せなかっただけなのに、いつの間にか「総括」の名の下に人を殺し、いつの間にか毒ガスを作っている。
以上を踏まえると、森山さんの発言から始まった「身の回りから変えていこう」運動の危ない点は二点ある。一つは、それに加わった人間がきちんとシニシズムを用意できる保証がない点である。参与者の大半がきちんとシニシズムを持つには、それ以前に彼らの中で強い共通認識が必要だと思われる。しかし、「身の回り」という、それぞれの立場や背景によって大きく差が出そうな事例を掛け金にして集まった人間が、そこまで強固な共通認識を作り出し、シニシズムの共有を図れるとは思えない。
もう一つは、その運動がもし成功したとすれば、それはまさにそれが失敗し暴走してしまう際の理由と同じ理由で成功する点である。「変わるかもしれない」が現実に「変わった」になるとき、つまり小文字の政治が大文字の政治にきちんと繋がるときのプロセスというのは、あらかじめ分からない。分からないからこそ信じる。そして分からないからこそ、「革命」とか「ハルマゲドン」とか、偽装された大文字の政治に回収されうる。つまり、うまくいくかどうかは「そんなのやってみないとわかんないじゃん」ということになるのだ。
そしてこの「やってみないとわかんないじゃん→だからやってみよう」メソッドを発動させるには、今の世の中は危険すぎる気がする。LifeのメインパーソナリティをやっているCharlieは結構このメソッドを肯定しているようだけれど、周りの人間は、これに乗る一方で、Charlie=社会学者・鈴木謙介にそれを肯定させてしまったこの社会がどういう現状にあるのかを、真剣に考えないといけない。

*1:それはとっくの昔に指摘されてはいた