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「アキバから考える―ニッポンポップカルチャーの未来」を聞いてきた。

「デジタルアートフェスティバル2007」の一環で、富士ソフトプラザビルで上記タイトルの様な対談が行われた。
パネリストは、東浩紀(批評家)・井上伸一郎(角川書店取締役)・クワクボリョウタ(メディアアーティスト)・森川嘉一郎建築学者)、司会に森山朋絵東京都現代美術館学芸員)というなかなかすごい顔合わせ。

対談の内容自体は、12月27日 17:00からNHK-BS2で放映されるので、詳細はそこで確認してください。

個人的には単に東浩紀を見たかったという理由で行ったので、ここでは彼の話を軸に全体の流れを紹介していく。ちなみに一応各パネリストの発言を「」で括ってはあるものの、要旨なので正確な発言ではないのでご了承願いたい。

オタク文化の価値

まず一番最初に森川嘉一郎がすごい構想をぶち上げる。

「オタク文化は日本の文化なのに、それが海外経由でしか文化として価値を認められないのは残念なこと。日本では個人がせっかく漫画・アニメ・同人誌などを集めても、その人が亡くなってしまえば散逸してしまう。だから漫画・アニメ・同人誌などをアーカイブする『オタク博物館』を秋葉原の近くに作りたい。目をつけてるのは、少子化によって廃校となった中学校の校舎。オタクに染まり始めるのは大体中学生ごろなので、そういう点でもふさわしい。これはオタク文化を海外に示すのではなく、国内に向けて発信するための『器』である」


オタク博物館というのだけでもすごいが、それを中学校に作ろうというのも凄い。壮大すぎる。

東浩紀はこの「オタク文化をアーカイブする」という構想に同意し、こうつなげる。

「フランスに行ったときに、『日本のオタク文化を扱った博士論文を書きたいのだが、どういう本を読めばいいか』と聞かれたんだけど、その子は日本語が読めない。日本のオタク文化を扱った本は日本語でしか書かれていない。日本語を分からない人が、日本のことを知りたがっている。このままだと、オタク文化が海外に伝わる過程で様々な価値や歴史性が抜け落ちて、誤解や齟齬を生むんじゃないか。
日本の行政は、伝統文化や瞬間的な流行を輸出することは考えていても、そうした数十年単位の長さのポップカルチャーを輸出することは考えてこなかった。日本国内の消費の果てに、海外への発信も射程にすべきだ。その際に、漫画・アニメ・同人誌といったガジェットだけを輸出するんじゃなくて、『価値』も同時に輸出する必要がある。それは難しいけれど」


この部分は、彼の企画している新雑誌「思想地図」の第一号の論文課題(詳細はこちら)の一部「(日本の思想や作品を)日本語で考え発表することの意味」の答えに繋がる問題意識だと思う。日本人が日本語で日本のことを語ることが前提となっている中で、彼は上記のような問題意識を持った上で、その前提を問い返そうという意図があったんじゃなかろうか。ただ
2007-10-19 - メタサブカル病
ここを見ると、どうもその意図は挫けているように思われるが。

オタクとアートの融合?

今回のこの対談のハイライトは、現代美術館学芸員の森山朋絵東浩紀の話のかみ合わなさだと思う。
そもそもこの対談は、「デジタルアートフェスティバル2007」のうちの1イベントである。なので森山さんは司会として「ポップカルチャーとアートの融合の可能性」について東にコメントを求める。
ところが東は

「アートはポップカルチャーを必要としてるかもしれないけど、ポップカルチャーはアートとの融合なんか求めてない。あるとしたらそれは個々のアーティストの問題」

と一蹴。
森山さんは「学芸員」であり、個々のアーティストの作品を「アート」として言説化する立場の人間である。一方東浩紀は哲学畑の人ではあるものの、この対談における立ち位置としては「批評家」であり、個々のオタクの作品を「ポップカルチャー」として言説化する立場の人間である。
そして「学芸員」の森山さんが語る「アートとポップカルチャーの融合」というのは、あくまで「アート」側の言葉で語られる融合でしかない。彼女はこのイベントの節々で、公共の美術館でそうしたポップカルチャーの展示をやることの難しさを語るのだけれど、東は著作権の話と絡めてこう語る。

「インターネットの普及は、作り手の爆発的増加をもたらした。『作り手の数>受け手の数』という状況が冗談じゃなくなっている。それは『文化』の語り方をも変える、というか変えねばならない。著作権は、ある特定の時代における特定の技術を想定して作られたもの。美術館もそうで、ポップカルチャーを美術館で展示する必要があるのかどうかも考える必要がある」


森山さんの立ち位置では、ポップカルチャーは未だあくまでも「サブ」カルチャーであり、「ハイアート―ポップカルチャー」という序列を免れていない。一方で東はそうした考え方も含めて、ポップカルチャーが語られる文脈を変える必要があると説いている。彼はオタク文化を「日本社会の生み出した鬼子」とし、その鬼子と正面から対峙するべき、とも主張する。ポップカルチャーは今後も発展するだろうし、日本の文化の「メイン」となる。その時に、日本社会がそれを語る適切な言葉を用意していないと困るんじゃない?と言いたかったのではないか。深読みもいいところかもしれないが、「オタクは、外に語るためのオタクの言葉を持て」というメッセージなのかもしれない。