絶倫ファクトリー

生産性が高い

恋空読了―「リアル」の調達先としてのケータイ小説

「ケータイ小説のリアル」と題されたCSF定例会に参加すべく、「恋空」を読んだ。
若干反則気味だが、PCからautopagerizeを使ってガリガリ読んだ。読んだというよりスクロールしたという意識の方が強いけど。
つーかあれって初出は魔法のiランドじゃなかったのね。知らなかったよ・・・

個人的な感想は、このエントリで書いた印象と変わらなかった。

近代とは再帰的な世界である。常に自分は自分について考え、世界は世界についての記述であふれている。そうした再帰的記述を通して、我々は世界が目の前の日常、自分が見たこと聞いたことだけで構成されているのではないということを「知っている」。だからこそ、「今、起こっていること」というのは、決して自分たちの身の回りで起きている事だけではなく、どこかに自分たちの知らない「世界」の断片が転がっているはずだ、と我々は考える。その「世界」を補完するための作業のひとつが、ケータイ小説。

あ、あとなんで主人公の女の子が「ヒロ」を好きなのか、他の男と大して変わらないじゃないか、と言ったら女性陣からブーイングを食らった。そこは聞いちゃいけないらしい。運命に理由はないのだ。そういうものなのか。

勉強会の方では、メディア研究の博士の方から文学史の先生までさまざまな人がさまざまな意見を出し合っていた。
中でも気になった点をいくつか列挙しておく。

「泣ける」という生理的現象との関係性

はてなのエントリ・ブックマーク界隈でも指摘されていたが、生理的欲求を満たすという点からみれば、男がポルノ小説読むのと変わらないじゃないか、という指摘は出た。ポルノに限らずとも、講談や浪曲も「泣ける」機能を持っている点で等価である。ただしこれだけだとケータイ小説読者の言う「リアル」が説明できない。ので「泣ける」はケータイ小説の必要条件、ないしは「リアル」の帰結としての現象なのかもしれない。

RPGとの類似

お約束とも言える「受難」を乗り越え、超越的なゴールに到達するという図式は、RPGと同じじゃないか、という指摘。RPGも、途中いくつか手ごわい敵が出てきてラスボスがいて、倒すと世界が救われる、という図式はどれもお約束である。ケータイ小説も、途中いくつかの苦難が「中ボス」として登場し、最後に「真実の愛(?)」というゴールにたどり着く。ある程度中身は想定できた上で、その「お約束」を確認する作業。
何名かが指摘していた「(話の展開が)古臭い」という指摘も、ここに回収できるかもしれない。話の流れとしては、70年代にも似たような文庫は流行したし、そうでなくても過去に似たような話はたくさんある、というもの。「お約束」の確認作業なので、ストーリーそのものは確かに古臭くなるよね、ということなのだろう。

ケータイ小説の読者が、これを入り口として、普通の小説にアクセスするようになるという期待

おそらくこれは無い。なぜなら(前のエントリで参照したダヴィンチのインタビューを見る限り)、ケータイ小説の読者層において、小説の位置づけは「ケータイ小説>その他の小説」である。いわゆる「文学」とされるものは、リアルかどうかの観点からケータイ小説の下位に位置する。よって「文学」が「文学」足りえている限り、ケータイ小説の読者層はその他のジャンルの文学に手を出すことは少ないと思われる。

文学的リテラシの低い層との相関性

ケータイ小説の読者層が、普段本を読まない、リテラシの低い層に被っているのではないかという指摘は、各所でなされている。ただしこれも「ケータイ小説読むやつはリテラシ低いよねププ」と断定し嘲笑するのは拙速かと思う。例えそのような相関性があったとしても、ケータイ小説の読者層から見ればこれを「リアル」だと受け取れず、「泣けない」人のほうがリテラシが低いのだ。文学>ケータイ小説という図式はもはや崩れている。

ケータイ小説の機能的等価物は何か

「泣ける」という点に注目した場合の等価物は上に挙げられたようなものだが、「リアル」の調達資源として見た場合、機能的等価物はかなり人・世代によって異なる。個人的には少し前は浜崎あゆみなどの「歌」かなと考えている。もちろん今も「歌」はリアルの調達資源として用いられているだろうし、ケータイ小説と合わせてどのようなものが「リアル」だと考えられているのかにも注目する必要がある。

次の「リアル」は何か

機能的等価物を探す、という試みは、次に「リアル」と感じられるものが何かという問いに繋がる。僕は残念ながら想像力に乏しく、この問いに対する妥当な答えは見つけられなかった。つまんない陰謀論が女子高生の間にも普及…ないか。

ケータイ電話というガジェットとの親和性

これはケータイ小説論の中で大変よく指摘されることで、短文だから携帯電話の画面で読むのにちょうどよかったんじゃないか、という理由付けがよくされるのだけれど、ちょっと留保する必要がある。まず恋空に関しては(僕も先生に指摘されて初めて知ったのだが)初出はPCの掲示板であること。そして短文で携帯向きだからといって、かくも似たような内容の小説が流行することの説明にはならないということ。なぜ神話や都市伝説、怖い話等ではないのか。なぜ「リアル」の調達先がこうした「泣ける」話であり、それが携帯電話を通じて調達されなければならなかったかという理由は、ガジェットの側面だけでは説明できない。ケータイというガジェットの特質は、流行するための必要条件であったかもしれないが十分条件ではない。


あとmuraiさんが中央―地方との関係で興味深い発言をなさっていたような気がするのだけど、うまく思い出せません。。。どなたか覚えていらっしゃったら指摘していただけるとありがたいです。