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「ウェブ炎上」と「嗤う日本の『ナショナリズム』」

読書日記 メディア論

このカテゴリでエントリ書くのは久しぶり。本読んでいなかったわけじゃないというか、むしろ最近では今が一番本読んでるんですが、うまいことまとめられない。

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

さてこの「ウェブ炎上」、著者の荻上チキについては彼の実名を某学者がバラしただなんだで彼自体が炎上気味という、洒落にならない事態もあったがそれはさておき。
内容自体は、そこまで斬新で重厚なことを言っている訳ではない。帯にある「ネット時代の教養書」というコピーが全てを表している。ウェブ上における人々の行動原理を、社会学やマーケティングの用語を駆使しながら、概論的に解説している。「社会学やマーケティング」の言葉は別にネットが出てくる前から存在したものだ。なので目新しいことはあまり無い、と感じるかもしれない。おそらくそれがこの本の言いたいことの一つだろう。ウェブというインフラは確かに新しいが、そこで起きる現象はウェブ以前に起きた現象とそう変わらないし、これからもおき続けるだろう、ということだ。なので内容としては目新しいことがなくて当然と言えば当然かもしれない。

ただ著者の徹底した「現象」そのものの分析にこだわる態度は、これまでのウェブ論とは一線を画す部分もある。彼はこの本の中で、あくまで人々の行為レベルに着目し、ウェブ上の「力学」の分析に務めている。例えば2ちゃんねるに代表されるような「祭り」のコミュニケーションについても、「何故『祭り』に参加するのか」「そこに一体感を求めているからだ」といった個人の意識レベルの話はしない。*1

本人の「意図」としては単に「面白いから」であっても、それが別のコミュニケーションに「つながる」ことで、政治的な意味を持つこともあるのです。*2


これは、同じ2ちゃんねるの分析をする北田暁大とは好対照である。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

彼は著書「嗤う日本の『ナショナリズム』」の中で2ちゃんねるのアイロニカルな作法に満ちたコミュニケーションを、「ロマン主義的シニシスト」が「正当化可能であるか不確定でしかない他者の行為に接続される可能性に動機付けられつつ、行為に踏み出すこと」であるとし、さらにこう評する。

かれらの「超越的・代替不可能な他者」なきアイロニー・ゲームの空間のなかでは、認知の水準/行為の水準の区別、そしてアイロニー(虚構を虚構としてみること)/ベタ(虚構を現実と同一視すること)の区別は失効し、アイロニカルであることの困難が前面化する。かくも困難な状況のなかでなおも「アイロニカルであれ」と命じられた主体、それがロマン主義的なシニシストなのである。*3

荻上も北田も、2ちゃんねる的コミュニケーションがもはやネタ/ベタの区別の付かない次元にあるという点では一致している。しかし北田は、その困難な状況の中でもそれはアイロニーという「作法」に拠るコミュニケーションであると述べるのに対し、荻上はあくまで行為の連鎖による「力学」に基づいた分析をする。「作法」か「力学」か、雑駁に対比すればこうした図式になる。
これはどちらが正しいというわけではなく、どのような分析方法を採用するか、という違いでしかない。ただウェブを論じるということになると、ウェブの性質上後者が有利ではあると思う。ウェブは行為と行為が接続するコストを格段に下げ、かつその接続を全て可視化する。そこには「作法」を織り込む前に反射的に行為が接続する可能性が存在する。だとすれば、分析を行為レベルに引き下げてしまう方が、分析方法としてはより多くの事例を取り込むことが出来るのではないか。

*1:ここら辺は文化系トークラジオ Lifeの「暴走するインターネット2.0」でも本人が述べていた。

*2:p.190

*3:pp.222-223