絶倫ファクトリー

生産性が高い

「犯罪不安社会」―規範と環境について

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

規範と環境は対立するのか

前回のエントリでは、2ちゃんねるコミュニケーションを巡り、北田氏は「作法」に着目する分析を、荻上氏は「力学」に着目する分析方法を取っている、と対比した。そして「作法」は人間の意志に注目し、一方で「力学」は人間の行為に注目している。この意志/行為という対比は、フーコードゥルーズの名を出すまでも無く、規範/環境という対比に接続できる。社会において、規範は意志のレベルで動作し、環境は行為のレベルで動作する。「自殺はよくない」という「規範」は、「死にたい」という「意志」に働きかけることで、線路に飛び込み自殺する人間を減らす一方、酔っ払いや視覚障害者が誤って線路に転落する事故は減らせはしない。しかし共通する「線路に落ちる」という「行為」に着目すれば、ホームと線路の間に物理的に壁を作り、電車が来たときだけホーム側のドアを開けるような「環境」を作ることで、両方のケースを防ぐことが出来る。

しかしこれはあくまでもミクロレベルの話、個人の振る舞いに焦点を当てた時の話であって、マクロレベルで見ると必ずしも意志と行為、規範と環境は対立関係にあるわけではない。
例えば都市空間は、法律や条令、道徳といった規範によって貫かれ、一定のパラメータを空間内に複数設定している。人を傷つける人間は許されない(国家権力によって排除される)、路上でタバコを吸うことは許されない、などといった「規範」が、人々に「正常な」振る舞いを要求するパラメータ、「正常な」挙動、「正常な」タバコの吸い方、として設定される。そして規範によって設定された様々なパラメータに基づき、環境が構築される。このように、規範は環境を作る際のベースになっている。

割れ窓理論の機能不全

芹沢一也はこの著書「犯罪不安社会」の中で、「割れ窓理論」に代表される、犯罪が起こる「環境」に注目する「犯罪機会論」を「相互不信社会」を作るとして批判している。パラメータの閾値が下がり、ちょっとした行動でも「不審者」にされかねない状況を、社会的弱者に不寛容であるとし、ライフスタイルの多様性が確保できない、と述べている。

芹沢の指摘は確かに正しい。しかしその批判の理由が、「犯罪機会論」が環境に注目する理論であるから、という風に向けられるのは間違いかなと思う。何故なら前述の通り環境は規範に基づいて構築されるからだ。「割れた窓」という環境に注目する理論であっても、何が「割れた窓」なのかを決めるのは、その空間を貫く規範である。マクロなレベルで見れば規範と環境はセットである。そのため防犯理論が犯罪原因論から犯罪機会論に移ったからといって、それが直接「相互不信社会」の成立に繋がるとは言えない。

では何故割れ窓理論が「相互不信社会」を生んでしまうのか。それは割れ窓理論が、先に挙げた[規範の存在⇒パラメータの設定⇒環境の構築]という回路に齟齬を起こすからだ。通常、規範はその社会の成員全員に認識され、また成員全体を射程に収めている。平等に成員全体を対象とすることで、また対象とされていることを認識することで、社会の成員であるという相互認識も生まれる。そしてそれによって初めて、空間を通呈する共通のパラメータを設定することができる。
規範が成員全体を射程とすることによる「解放」と、パラメータの設定による「閉止」の同時進行により、環境は構築される。しかし割れ窓理論は、何を「割れた窓」とするのか、つまり環境を構築する基準となる規範の中身が恣意的であり、社会全体、空間全体への考慮が欠けている。成員全体がそれを規範だと認識していないようなことまで規範にしてしまっている。なのでどこにどのようなパラメータが設定されているのか、見通しが立たないのだ。何が「割れた窓」なのかを決めるのは、行政を通過した法や条例でもなく、成員全体が合意したルールでもなく、一部の「市民的感情」に動かされた集団である。そのため[共通した規範に基づかない⇒共通のパラメータが設定できない⇒共通の環境が構築できない]という機能不全に陥るのだ。

つまるところ何が言いたいのかというと、「自警団ごっこはゲーテッド・コミュニティの中でやってくれ」ということなのだけれど、そういうわけにもいかないのでこんな文章を書くに至った次第である。