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絶倫ファクトリー

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「人間の及ばぬ大きな力」と「ゆるす」こと

日常を綴る

とある方の日記にコメントしようとしたのだが、残念ながら元記事が消えてしまったのでここに書く。

「合計」を超えた、人間の及ばぬ大きな力

「人間の及ばぬ大きな力」というのを、僕は信じている。と言っても神様仏様の類ではない。それは人間から生まれるけど人間の及ばない力である。人間ひとりひとり、個人個人の力の合計を超えた力である。
1+1=2 である。これは個人と個人の力を合計したものが2であることを示す。だがたまに人間が集まると1+1=3 だったり4だったりになることがある。合計以上の力を生み出すことが、人間にはある。この3や4と、単なる合計としての2を比べたときの「差分」。これが人間から生まれ、しかし個としての人間の及ばぬ、人間を超えた大きな力である。
僕は幸いなことに、ずっと小さい規模だけれどこうした「差分」が生まれる瞬間に幾度か立ち会ってきた。こんな普通の人生を歩んでいる自分の周りにもそういうことがあるのだから、きっと世の中は「差分」で溢れているに違いない。そしてその「差分」が集まってさらに大きな「差分」が作られているに違いない。むしろこの世界はその「差分」でこそ出来ているに違いない。見たわけではないけれど、きっとそうだと思う。

僕は今大学院受験を準備しつつ、就職活動をしている。二束のwarajerである。
就職活動で説明会なんかに行くと、つまらない説明と面白い説明会がある。つまらない説明会は、単に業務の説明とか、会社の構成とか、個々の人間の「合計」しか話さない。面白い説明会は、こうした「合計」を超えた、「差分」としての大きな力が会社にあることを説明してくれる。もちろん別に会社で実際に働いたわけではないので、それが本当かどうかは分からない。けれどそうした力の存在を説いてくれることは、人をひきつけるという意味で、面白い。

「ゆるす」という行為

コメントしようとした方の記事が「ゆるす」という行為について述べていたから一言。
人を「ゆるす」という行為は難しい。幸いながら僕はそのような難しい選択を迫られること無く生きてきたけれど、でもこの先生きてればそういうこともあるのかなと思う。
もし自分がすごく酷いことをされて、しかしその人を「ゆるす」必要があるとしたらどう考えるか。犯罪被害者やその関係者になったときなんかだと想像しやすい。
自分の視界から消しただけでは、「ゆるす」ことにはならない。それは自分の目の前の世界から消すという点で、「殺す」のと一緒である。けれど相手の行為をなかったことにすることもまた違う。やっぱりそれも自分の見たくないものを現前の世界から消しているだけである。
どうするか。相手もまた自分と同じように、この世界の「差分」を作り出す世界の一部だと考える。それは「人間の及ばぬ大きな力」を経由することで、相手を世界の中に認知する行為だ。現前から消すことでも過去を消すことでもなく、過去と現在を認知した上で未来への土台を作る。実際のところはこんな甘いもんじゃないのかもしれないけれど、上の話を踏まえるとそういうことになるのかなと思う。


自分にしてはずいぶんスピリチュアルというか根拠のちっとも無い話を書いてしまった。「思う」「かもしれない」「らしい」だらけだ。たまにはこういうのを書きたくなるときがあるらしい。