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絶倫ファクトリー

生産性が高い

低コスト時代のコミュニケーション

ウェブ論

まず始めに。
F's Garage @fshin2000 :Webコミュニケーションについて50%理解して50%理解できてなかったこと。

・繋がるコストがゼロ円になった時代と、そうでない時代のコミュニケーションは違う。昔は繋がることにお金と手間暇かかったから、それ自体に価値があった。今はそれだけじゃダメ。

僕は逆な気がする。コミュニケーションにかかるコストが限りなく低下したからこそ、繋がることに意味を見出す人が増えた気がする。
高コストなコミュニケーションは、道具的価値にひきづられやすい。固定電話は、同期的で時間・空間の拘束力が強く、高い機会費用を要求する。なので電話するため=繋がるためだけに電話するという行為は、今でも受け入れられにくい。ある目的を達成する、手段としてのコミュニケーションとして用いられる。かけたコスト分のリターンが要求される。

一方で例えばケータイのメールは、非同期的で時間・空間の拘束力が弱く、機会費用が低い。ブログやSNSのコメントなんかも同類だ。これらはコミュニケーションするための敷居が下がったため、手段と目的の一致が起こりやすい。求められるのは目的としてのリターンではなく、接続することそのものである。

コミュニケーションが目的化すると、次に求められるのはコミュニケーションを媒介する「ネタ」である。何を掛け金にコミュニケーションするのか。mixiは日記やコメントの見せ方を工夫することで、あしあと機能を搭載することでコミュニケーションのネタを生まれやすくした。それだけではいずれ飽きが来るから、フォト、ムービー、モバイルではゲームと色々なコミュニケーションのネタを増やした。

一方でtwitterは、一見すると何がコミュニケーションの「ネタ」になっているのか分からないため、敷居が高い。そこでネタになっているのは、つぶやきの束によって形成されるパーソナリティそのものなのだけれど、そこで接続する楽しさをインターフェースの力で見せ付けるのは難しい。

はてなスターは、一ヶ月限定ながらお互いにスターを付けた者どうしメッセージが送れるようになっているシステムを見ると、それそのものがコミュニケーションであるというより、コミュニケーションのための「ネタ」として実装された感がある。

「ネタ」とは、コミュニケーションにおける過剰である。コミュニケーションが高コストパフォーマンスであった時代は、手段としてのコミュニケーションは、遅かれ早かれ結果(目的)に還元された。いわば一方通行的な変換である。それが低コストなパフォーマンスになると、手段⇔目的という図式になる。手段と目的が一致するという観点から言えば、本来なら「手段」という文字と「目的」という文字を重ねたいところなのだが、それではコミュニケーションが発生しない。この「⇔」は、手段と目的の間に発生する過剰性であり、必然としての余剰である。それが「ネタ」であり、ウェブにおいてはこの過剰性をどうコントロールするかが重要になってくる。薄すぎるネタではコミュニケーションは発生しないし、壮大すぎるネタは敷居が高い。その間にどうネタを設定するか、これが大事だと思う。