絶倫ファクトリー

生産性が高い

インターネットで変わらないこと


これメモ書き程度なんであんまり本気にしないでください。

インターネットの登場で世の中が変わった変わってる変わると言われてるのだけれど、最近そうでもないんじゃないかと思い始めてきた。いやもちろん変わってる部分は劇的に変わっているし、これからも変わり続けると思うのだけれど、これだけ「変化」の部分に焦点が当たってると、「変わってない」部分に目がいかなくなっちゃうんじゃないのという話。
そしてこれもまた直感なのだけれど、世の中全体がを100だとすると、インターネットの登場で99変わったとしたら、むしろ大事なのはそれでも変わらなかった1の方じゃない?とか思う。その1が何なのか、今のところ言葉にしあぐねているのだけれど。

ぼやんと頭に浮かぶのは、こんな世界。空間のあちこちに小さなゲートが点在していて、一定のコスト*1を払うとそのゲートをくぐることが出来る。そのゲートをくぐると、その人が求めてた「情報」なり「モノ」にアクセスすることが出来る。
多分従来のインターネット像でいうと、インターネット後というのはこのゲートに払うコストがすごく減ったイメージがあると思う。それまでは物理的・制度的に圧倒的なコストを必要としていた「情報」「モノ」へのアクセスが、すごく容易になったイメージ。

ところが僕の中では、ゲートに支払うコストは変わっていない気がする。変わったのは、ゲートの位置(コストの支払先)がローカルからウェブになったことと、コストを払える人の種類。人がある情報なりモノなりにアクセスするためのコストは、アベレージを取るとそんなに変わってなくて、代わりにアクセスできる人がインターネットの登場前と後で変わって、さらにそのコストを払う相手先が変わった。

ゲートは動いた。情報やモノにアクセスするための敷居は移動した。けれど払わなければならないものは全体で見るとどうも変わっていないように見える。インターネットは知へのアクセスを一見容易にした。それまで既存の教育制度に則らなければ手に入らなかったかも知れない知識が、容易にアクセスできるようになった。ところが「嘘を嘘と見抜ける人」でなければ本当の情報にアクセスできない世界では、そうしたいわゆる「リテラシ」を手に入れるのに膨大なコストを支払う人も居る。もしかしたら一生それを身に着けぬまま過ごす人もいるわけで、その人が本当の情報にアクセスするためのコストは、無限大である。
インターネットの登場前は前でそれなりにコストがかかった。あるときふと疑問に思ったことを調べるのに、わざわざ学校行ったり図書館行ったり本買ったりする必要があり、そのうちに諦めちゃったり時間がかかったりとコストがかかってるわけだ。

こうしたことをごちゃごちゃ考えていくと、人が本来手に入れるべき情報やモノに触れるためのコストは、それを払える人間の種類は変えつつしかしアベレージは変わってないんじゃないかなと思うのですよ。いや全然実証もクソもないので、誰か偉い人調べてくれないかな。自分で調べろって?確かに。

*1:ここで言うコストとは、単に金銭だけではなく必要な時間も含めた広義のコスト