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絶倫ファクトリー

生産性が高い

事実か創作か、リアルかネットか

ウェブ論

ニートの19歳女の子を札幌『紀伊国屋』に連れてったら感動して泣かれた話*ホームページを作る人のネタ帳

この話が本当なのかどうかを気にするのは、「恋空」が実話に基づくのかどうかを気にする人たちとメンタリティが似ている気がする。「水からの伝言」などの似非科学を用いた論法と同一視する人も居るけれど、それも若干違うと思う。似非科学の非難されるべき点は、科学という既に体系だった正統性を隠れ蓑のように装うことで自論の根拠としたことであり、「水からの伝言」という物語の正統性を、「科学」という物語の「外」に求め、かつその「外」との整合性を持っていない点で非難されるのである。
一方でこの19歳のニートの女の子の話は何か既存の正統性を装うことはしていない。この「物語」の正統性は、この物語の中にしか見出せず、物語の「外」に根拠を求めているわけではない。「この話は実話に基づいています」という著者の一言しか事実性を担保していないケータイ小説と同じレベルである。もし女の子自身のエッセイやインタビューなどが単独で他に存在し、それを捻じ曲げて解釈したものに基づいて書かれたのがこの話であれば、それは「水伝」と同じ理由で非難されるべきであろう。本人が事実ですと言う他に事実であることの根拠が述べられていない以上、それは事実でないとはいえないし、事実であるともいえない。「事実かどうか」を問題化することは出来ない。その分、もちろん説得力も保証されないけれど。

ちなみに事実性云々ではなく話の中身について言えば、この話のキモと思われる部分

ネットには、多くの人間が書評などを行っています。
誰かが言ったから買う、とか、Amazonで人気だから買う、とか。

そういう集合知によって発生する付加価値が、ネットにはほぼ必ず付いてきます。
Googleから検索するという、たったそれだけの行為でも、検索順位と言う付加価値が付いて回ります。

逆に本屋と言うのは、ほぼ全ての本が平等であり、どれを買うかは本人が調べ、考え、選び、そして購入に至ります。

本屋の面白さはここにあると私は思っています。

には疑問符が付くと思う。ネット上で本を買おうとすると、それに関する情報が大量に付随して頭の中に入ってきてしまうというのは確かにその通りで、リアルの書店ではそれが遮断できるというのも確かにその通りだと思う。けれどではリアルの書店では全ての判断材料が自前なのかというと当然そうではなく、彼女がそれ以前に触れた情報、人間、価値観に左右されることはある。その意味では全ての本がフラットであるというのは不可能な話で、本当に扱いをフラットにしたかったら買う本をクジで決めれば良い。偶然性に任せなければ、どうやったって外部情報を遮断するのは難しい。書店におけるリアルかネットかは、購入に関わる外部情報の過多程度しか違いはないのではないか。*1

個人的にはリアルの書店と比較する対象をamazonやセブンアンドワイといった実際の具体的なサービスとするのはどうなのかなと思っている。リアルの書店でも、欲しい本を検索機で探してレジに持っていって会計を済ませるだけなら、amazonで買うのと本質的には変わらない。僕はリアルの書店は何か欲しい本があるというより、面白そうな本なんかないかな、と無目的にふらふらと立ち寄って適当に立ち読みしたり眺めたりしたいときに利用している。そういう意味で、リアルの書店と対応しているのはamazonではなく、自分が読んでいるブログの世界、大きく言ってしまえばネットの世界全体だと思っている。人のブログをあっちこっち読み漁っていると、毎日大概何かしらの本について述べたエントリに出会うので、RSSリーダーで購読フィードを読むことは本屋を無目的にフラフラ歩くのに近い感覚がある。そしてある本についての書評エントリを読むことは、書き手の目を通してその本を立ち読みすることに似ている。
この比較軸で言うと、リアルの書店とネットの「書店」の違いは、自分の目を通して立ち読みするか人の目を通して立ち読みするのかになる。どちらが良いかは人それぞれだろうけれど、というか理想なのは両方使いこなして自分に合った本を探すのがベストなんだろうけれど。

◇◆◇補足⇒http://d.hatena.ne.jp/klov/20080227/1204072737

*1:もちろんこれ以外にもウェブの書店とリアルの書店の違いはあるけれど、ここで焦点となっている「リアルの書店は平等」という主張に関わる範囲に限った場合の話である。