読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

絶倫ファクトリー

生産性が高い

「表現の自由」というタームは耐用年数を過ぎた気がする。

政治

しばらくじっくりPCに向き合う時間が無かったので、今更児童ポルノ関連の議論を見返してみた。*1

その中で気になったのが、何箇所かブログ上で散見した「欲望は裁けない」という命題である。確かにある種の性的な欲望を持ったことが外部に発覚したとして、欲望そのものを罪にすることは出来ない。少なくとも現行の制度では。
しかしこの命題が自明であるからといって、欲望の「管理」もまた不可能であるとは思えない。欲望そのものを罪にすることはできなくとも、もう一段階クッションを置いた形で、人間の性的な欲望を管理しようという試みは、既に幾度も歴史の中で繰り返されてきた。欲望の対象物を保護したり、欲望の発露を制限したりというかたちで国家は欲望に規律訓練を施してきた。欲望は、その外堀を次々に埋められた結果、「規範」という縄によってきつく縛られている。こうした歴史を踏まえるならば、「欲望は裁けない」という命題に乗っかり泰然としている間にも、しっかりと規律訓練は進むだろう。

こうした「欲望の管理」は、当然ながら人間の「自由」とトレードオフな関係にある。女子高生の身体を金で買って欲望を満たす「自由」はない。では女子高生に「見える」性的な画像を所持する自由は? 「管理」とは、こうした曖昧な部分に強引に境界線を引き、善と悪の選別を行う作業でもある。
当然こうした動きに対しては、ほぼ毎回「表現の自由」というタームが付いて回る。過去のわいせつ物に関する議論の中でも幾度も登場してきた。ところが、もはやこの国において「表現の自由」というタームはもはや耐用年数を過ぎてしまった感がある。この国で人々があらゆる利害を通り越して団結できる唯一の関心事は、「セキュリティ」であり、このタームの前には今や全ての論理が硬直する時代となった。*2そして我々が現在享受する「自由」もまた、この「セキュリティ」の論理の中で認められたものだけになっている。そのような中で、「表現の自由」というタームは、セキュリティのロジックの前にはおそらく通用しないだろう。もちろん表現の自由が守られることは大事だが、それの持つ論理的な強さ、つまり人間を動員するための「政治の言葉」としてはもはや力を失っているように思われる。

もし性的な欲望の管理に対抗する手段が必要だとするならば*3、我々は「表現の自由」というタームに代わる言葉を探す必要がある。それが何なのか、ということを僕はここではっきりと提示する能力は持たないが、まずこうした意識を出発点にしないといけないのではないか。

*1:細かくいうと主に問題になっているのは児童ポルノの単純所持の禁止と準児童ポルノという概念についてのようだが、ここではすこし問題意識を広げて議論する。

*2:身体の保護という私的なレイヤーの問題が、公的なレイヤーの問題に立ち上ってくるというのは決して新しい話ではない。だが少なくとも今までは私的なセキュリティの問題は「前提」とされており、社会がセキュリティを公的レベルの問題として語るということは、それを「前提」だと認識しなくなったということだ。それがはっきりと目に見える形になったのが911である。

*3:そもそもこの条件を満たすのが難しいかもしれないけれど。