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「友だち地獄―『空気を読む』世代のサバイバル」

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

2006年度、僕がゼミで御指導いただいた先生の本である。渋谷の紀伊国屋をほっつき歩いていたら見つけたので購入した。*1

授業二つにゼミ一つを取っているので、本の内容自体は割りと聴いていたものと一致するが、ケータイ小説など新しい事例も扱っていて、確認のためにも役に立った。

本書の要旨

「友だち地獄」という煽り気味なタイトル*2の通り、現在の若者の友人関係は希薄化しているのではなく、むしろ友人関係に過剰に没入し、その関係性を維持するのに必死になっている、という内容である。
現在の若者はコミュニケーションを円滑に進めるため、表層的な争いやいざこざを極力回避し、お互いが傷つかないような「優しい関係」を維持している。そしてその「優しい関係」の維持に与しない人間は、「KY」であるとされ、徹底的に嫌悪される。
ではなぜ彼らはそうした「優しい関係」の維持に奔走するのか? 彼らは「純粋なもの」にあこがれる。ひきこもりの人々が使う「純度100%の自分」という言葉に見られるように、自己の中に「純粋でピュアな自分」を求める。それは身体的で、生得的で、本質的な自己への欲求である。しかし自分の身体的で感覚的な欲求に従えば従うほど、他人との違いは際立ってくる。彼らはそうした違いの存在を認め、一方でそれが顕在化しないようにするため、「優しい関係」を維持したがる。高度なコミュニケーション技術である。
彼らが「優しい関係」を維持するのにはもう一つ理由がある。彼らは自分の中に眠る「純粋でピュアな自分」を探しているのだが、それらは自分で探し当てるだけではなく、他人の承認を得ねば見つけたことにはならない。そして身体的、生得的な感覚に基づいて行動する際、人間関係のゆがみによって自分が否定されるようなことがあれば、それは「本当の自分」を否定されることになりかねない。「優しい関係」を維持することは、高度なコミュニケーション技術であると同時に、自己への承認を曲がりなりにも調達する手段でもあるのだ。

こうした主流の論旨の横に、傍流としてケータイ小説や青春小説、ネット自殺などの事例が絡んでくる。様々な事例をスパスパと斬っていく様子は、非常に軽快であり、読むほうも思わずうなづいてしまう。

一方で、若者の行動に対して彼らのメンタリティを分析することで一定の理由を与えているものの、ではなぜ彼らがそのようなメンタリティを持つようになったのか、例えばなぜ彼らは「純粋な自分」を探すようになったのか、という根本的な説明は若干弱い。大澤真幸などの理論を多用してはいるが、それも根源を説明する理論にはなっていない。

「本当の自分」を求めて

「純粋でピュアな本当の自分」がどこかにいるはずだ、という感覚に基づき現代の若者は行動している、という指摘は、速水健朗の「自分探しが止まらない」と共通している。ではなぜ我々は「本当の自分」を探してしまうのか? そして「本当の自分」などというものは現実に存在するのだろうか?
客観的に確認可能な資料で言うのならば、よく挙げられるのが1980年代以降の教育現場における「個性」重視型教育への転換である。ただしそれは経済的な変化に対応するための要請であり、いじめやリストカットを誘発するようなレイヤーにまで踏み込むものではなかったはずである。だとするならば、教育現場のみならずそのほかの領域でもそうした個性への志向を煽られた結果なのだろう。(ここら辺は特に土井先生の前著
「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)
に詳しい)
そして問題なのは、個性を煽られることでも自分探しをすることでもなく、煽られた我々が抱く「本当の自分」像と現実の自分に、いかんともしがたいギャップが存在し、そしてそのギャップはいつまでも埋められることがない、ということだ。いつまで経っても見つからない「本当の自分」に振り回されて「優しい関係」の維持に奔走する姿が現実のものだとしたら、その責任は虚構のはずの「本当の自分」をベタに信じ込ませようとした側の人間たちにある。

文化系トークラジオ LIFEの「自分探し」のpart4辺り(2008年3月9日放送「自分探し」part4 (文化系トークラジオ Life))で挙げられていた「自己啓発」などもまた「本当の自分」を探すための手段である。番組中では自己啓発の効果を強調するメールを送ってきていた人もいたが、それは「本当の自分」というにんじんを目の前に垂らされて疾走する馬に過ぎない。もちろんそれで他の馬を追い抜き、レースに勝つ馬もいるだろうが、大抵の馬はにんじんが手に入らぬことに疲れてしまい、走るのをやめるだろう。そこでなお「走れ」というのは、はてな界隈の言葉を使えば「マッチョたれ」ということに他ならない。企業戦士が鞭を打たれて虚構のにんじんを追い求めるのはまだしも、果たしてそれは学生に対しても当てはまる言葉なのだろうか?

もし本当に我々が「本当の自分」などというものを持っているとしたら、それは極めて生得的なものであり、「探す」などということをしなくても勝手に出てくるはずである。にもかかわらずそれを探し続けねばならないということは、やはりそれは虚構であり、虚構であるということを認識した上で上手く取り扱うのがよりよい選択肢だと思う。ただそうしたアイロニカルな姿勢を実際の教育現場に持ち込むことは難しい。難しいが、しかし本書の内容が事実ならば、それを乗り越えなければ問題は今後もより拡大するだけになるだろう。

*1:ところでうちの大学の一番大きな書籍部にはなぜかこの本置いてなかったんだけど。どうなってんの?

*2:土井先生にしちゃ煽るなぁと思ったら本人が付けたのではないらしい