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「戦後」の<歴史>化

社会学

先日ゼミで先生に言われて気づいたのだが、そういえば「戦後」という言葉を最近とんと見なくなった。中曽根首相が「戦後政治の総決算」という言葉を使って以降も、メディアでは自分たちの現在生きている時間を指して「戦後」と呼ぶことはあった気がする。

メタヒストリーという立場に立つと、これは「戦後」なる時間が過去のものになったということを意味する。ではいつから「戦後」ではなくなったのか?「戦後」を字義通りに捉えるなら、戦争の終わった後の平和な状態である、ということになり、そのフレームが消えたということはつまり今は戦時中なのだ、ということになる。安易に接続するならば、それは9.11以降ということになるのだが、この解釈は個人的にはしっくり来ない。

「戦後」なる時間の流れをconstativeに捉えるのではなく、perfomativeに見たとき、我々が自分たちの生きる時間を「戦後」と呼びうるフレームというか条件、メンタリティのようなものが変わったのだろう。それは戦時中だとかそういうことではなく、もう少し大きな枠で見たフレームの変化だろう。

個人的には9.11といったような特定のトピックによって戦後が<歴史>となったというわけではない気がする。我々があの時代を<歴史>とみなすことは、単に今の時代の以前に存在した時間であるということだけでなく、何らかの形で語られたものになる―それが<>が付くということ―ということが必要になる。事実の時系列にそった羅列だけではなく、それがどういったものであったのか、現在から見てどのようなものだったのかということを語られ、かつそうした認識が社会全体で共有されることが必要なのだ。

小泉首相以降、政治は戦後的なるものからの脱却を図ろうとしてきた。戦後政治的なスキームで動いてきた社会の構造は、ベタに信じられる「事実」ではなく、<>付きのもの、他に選択肢があったかもしれないナラティブなものであったのだ、という認識が広まった気がする。彼の靖国参拝への姿勢は、それまでの首相が取ってきた姿勢を<歴史>の中へと押しやり、語られる対象とした。「構造改革」のフレーズは、それまでの政治が「改革」されるべきものであり、我々にそれが何であったのかを語らせた。このように戦後的な時間に<>を付け、語るべき対象とする動きがいくつかの場面で同時多発的に起きたような気がする。9.11もその一つであろうが、それが全てではない。グラデーションを描くように、だんだんと我々の生きる時間から戦後的なものが消え、ナラティブなものとなっていった。

ただし<歴史>がナラティブなものであり、社会との間で往復的な再記述を経て形成されるものだ、という認識が人々の間で共有されているかは怪しい。我々は確かに戦後的な時間を<歴史>の中に追いやり、語るべき対象としてきたが、そうした変化に自覚的でありながら意識的にやっているのかというとそうでもないようだ。戦後・戦中の歴史について、未だ「事実性」の奪い合いは起きている。それが歴史の物語性をより確かなものとしているのだが、彼らはどうもベタに事実性を求めているように思われる。

もちろん<歴史>は我々が単に記述するものであるだけでなく、<歴史>もまた我々を記述する。我々が記述した<歴史>は、その記述を通して我々を規定する。我々が何を<歴史>としたのかを見ることによって、我々の現在の社会的なメンタリティを知ることが出来る。

ただ「戦後」なるものが<歴史>の一部となったことはあるにしても、果たしてそれがどのような<歴史>であったのかということについては未だ共有されているものが少ない気がする。ポストモダン的に言えばそれは共有されないまま終わってしまうのかもしれないが。
個人的な興味としては、<歴史>が物語であること、そのナラティブさを共有している人たちと、単なる「事実性」にのみ拠ってベタな見方をする人たちとの間で大きな乖離が起きているように見える。その乖離が現在の社会でいくつかの「問題」として表面化しているように思う。