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「東京から考える」再考―都市を考えるためのマトリックス

昨年秋の「柏から考える」(柏初上陸―「柏から考える」の感想 - No Hedge!)について、先日のゼミでもう一度考える必要があったので色々整理してみた。*1これは柏がどうというレベルではなく、おそらく「東京から考える」

で提示された東・北田による「国道16号線的な都市へのアンチに対するアンチ」という泥沼にはまりそうな(はまった)議論を整理するきっかけになるだろう。


都市と個人を考えるとき、そこには都市から個人を考える視点と個人から都市を考える視点の二つが存在する。これを前提に二つの対立軸を示し、それを掛け合わせた平面図を提示する。

視点1.都市における個人―環境が個人に与える影響

「東京から考える」の議論をベースにすると、個人が都市で暮らす際に感じる「気楽さ」は二種類ある。

国道16号線的な「気楽さ」:インフラ的な「機能の多様性」が担保された気楽さ。空間的にも経済的にもバリアフリーであり、ヤンキーから家族連れまで日常生活の根本的な部分を幅広く支えることが出来る。

西荻窪的な「気楽さ」:サブカルチャー的な「文化の多様性」が担保された気楽さ。衣食住といった生身の「生活」というよりも、個人の趣向に基づいたライフスタイルを支える。

西荻窪的な「気楽さ」は、東浩紀が「怒っていた」通り、家族連れや老人には通用しない。一方で16号線的な「気楽さ」もまた必ずしも西荻窪的な「気楽さ」を包含しない。バリアフリーでありながら、北田暁大のような一人暮らしに近い生活をしている人にとってはあまりに「ファミリー」的な空間であり、いづらさを感じる。どちらの「気楽さ」も都市に何らかの規範を生み出し、あるカテゴリの人間に疎外感を与えている。これらは単純な二項対立というより以下の様な上部・下部構造になっていると思われる。

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16号線的な「気楽さ」は<生活>において必要な資源を供給する「機能」が非常に優れていることを示している。誰でも衣食住は満たされる必要があり、あらゆる人間がいつでもそれらを満たされる機能的な側面が重要視される。16号線的な空間は<生活>空間であると言える。
一方で西荻窪的な「気楽さ」は、<ライフスタイル>における選択肢の多様性を示している。<生活>が満たされていることは前提にされている。西荻窪的な空間は<ライフスタイル>空間であるといえる。
 「家族」としての日常生活は、<生活>が<ライフスタイル>を規定することが多い。一家四人を支える<生活>は選択肢が限定されており、それが同時に文化的な<ライフスタイル>も規定する。一方で一人暮らしのような人々は<ライフスタイル>によって<生活>を規定することも可能である。

視点2.個人のアイデンティティと都市―個人が都市に与える影響

個人の持つ都市に対する意識がどのように変わっているのか、またそうした意識とまちづくりがどのように関わっているのか。

(「東京から考える」)における「渋谷」:(特に東氏の)ヴァーチャルな地元意識を担保する。匿名的で、個人は都市に埋没する。ただしこうした記号的な「渋谷」意識は今は衰退している。

(例えば難波 功士『族の系譜学』における)「ウラハラ」:そのコミュニティに「所属」しているようなアイデンティティを担保している。顕名的で、個人同士のコミュニケーションによる「繋がり」が掛け金。都市は後景化し人々の繋がりが前景化する。

万人がイメージする記号に基づいた都市:スペクタル志向の空間。その記号の耐用年数が過ぎたときに凋落する。また記号にたよったまちづくりは単なる都市間競争に陥る可能性がある。

「繋がり」に基づいた都市:コミュニケーション志向の空間。実際の人間関係を掛け金にしたコミュニティを抱えるため、所属意識を促し、人々を都市に根付かせる可能性がある。ただし下北沢の例で分かるとおり、世代継承性やセキュリティのロジックで脆弱性を抱える場合が多い。

この10年20年で、ある都市の名前が万人に共通のイメージを喚起する時代は終焉を迎えたのかもしれない。代わりに台頭するのは大きな「都市」ではなく人々の「繋がり」を担保する小さな「コミュニティ」である。それは個人のメンタリティとしても、また都市が人々を取り込む際の戦略としてもそうしたものは有効であるらしい。(「渋谷」という記号が失効しても渋谷という都市そのものが勢いを失わなかったのは、その後コミュニケーション的な空間へと移行したからなのかもしれない)
ただこの「記号から繋がりへ」という現象は、あらゆる場所に通じる共時的な現象であるのか、それとも発展段階論的なモデルケースなのかは分からない。「渋谷」という記号が失効したのは、その記号が持つ実質的な機能が成熟しきってしまったからだとするならば、例えば「柏」等そのほかの中核都市ははそもそも記号として成熟しきっていない可能性がある。その場合、都市が取るべき戦略はおのずと変わってくる。
注意すべきなのは、記号的な都市にしても繋がりのあるコミュニティ的な都市にしても、<生活>の側面を犠牲にして<ライフスタイル>を重視しすぎるやり方では足下をすくわれるということだ。安定した<生活>空間を作らなければ、そこに容易に資本が流入し、せっかく作り上げた記号的な<ライフスタイル>空間も基盤から崩されることになる。またコミュニケーン志向の空間も、セキュリティや世代継承性といった<生活>空間への配慮を欠くとロジカルにカウンターされる。

<生活>―<ライフスタイル>:スペクタクル―コミュニケーション

以上のような、<生活>空間―<ライフスタイル>空間の軸と、スペクタクル志向空間―コミュニケーション志向空間という軸の二つを掛け合わせせると、一つのマトリックスが出来る。「東京から考える」やその他の文献で出てきた都市や地域を適当に当てはめてみた。それが以下の図である。

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「『ジモト』意識で繋がる地方都市」というのは、友人関係を広げず地元の中学や小学校の友人だけで閉じてしまい、「ジモト」を大事にするという意識で繋がる関係性のことである。非正規雇用に就く若者が多い。詳しくは

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか

若者の労働と生活世界―彼らはどんな現実を生きているか


における新谷周平の論文を参照。

秋葉原や原宿が矢印で移動させてあるのは、以前は<ライフスタイル>空間的でコミュニケーション志向だったのが、マスメディアへの露出を経ることで、大手の資本が多く参入し、スペクタクル志向の空間へと移行したのではないか、という推測に基づく。

またこれらは都市を外部から見たときのイメージを図式化したものなので、実際にそこに暮らす住人は異なる印象を持つだろう。もちろん、外部イメージを内側から取り込んでいる可能性もあるが。

この図式を作って言いたかったのは、どの都市なり地域なりがこの図のどこに当てはまるのか、ということより、「東京から考える」に見られるような、「国道16号線的な光景を嫌う三浦展vsそれのどこが悪いんだ的な東・北田」、「国道16号線的な光景万歳の東vsそれでも下北沢が好きな北田」、という単純な二項対立で話を展開させるべきでない、ということだ。都市が規定する個人の生活は二層構造になっており、この区別をまず前提にすれば、ジャスコ的なものと下北沢的な光景を比較するのが軸のずれた話だということが分かる。またそこにセキュリティガンガンの世田谷などの話を加えても、軸がやはりずれてしまう。話は単純な二項対立の中ではなく二項対立の掛け合わせによる平面の中で捉えたほうが分かりやすい。

ちなみにここにそれぞれの地域やコミュニティへのコミット具合とそれに伴う内部のコミュニケーションの変化という軸を加えると平面だけでは足りず3次元の図式が必要になるのだがそれは面倒なのでまた今度。

*1:ちなみにここに出てくる五十嵐先生の書かれた文章がネットにアップされており、非常に面白い。こちらに興味もたれた方は是非ご一読を。http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_1_pride.html