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「フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理」

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

1952年、後に写真史上にその名を残す写真集、『決定的瞬間』が出版される。フランス人写真家カルティエ・ブレッソンの手によるこの写真集は、しかし原語のフランス語から外国語に翻訳される際、名前を書き換えられていた。英語名は「The Disicive Moment」。日本語名「決定的瞬間」もこの和訳からとられた。所謂重訳である。だがフランス語の名前は「Image a la sauvette」、著者の訳によれば「かすみ取られたイマージュ」であった。
誰が何故このような書き換えを行ったのか。何が「かすみ取られた」のか。この写真集の持つ真の意味はなんなのか。ここから数々の名写真に秘められた本当のメッセージが次々に暴かれていく…。写真版「ダヴィンチ・コード」の決定版!



と、いうストーリーの本ではない。もちろん。ただブレッソンの写真集の名前が「かすみ取られたイマージュ」から「決定的瞬間」に変えられたというのは事実である。そしてそのことは、「写真」なるものを撮る側だけでなく見る側からも考えるとき、様々な示唆を含んでいると言える。

アートか、報道か、商品か

本書は「フォト・リテラシー」という名の通り、従来写真を撮る側に求められて続けてきた論理的・倫理的課題を、見る側からもまた考える必要がある、という趣旨の本である。

写真が技術的に普及した後、「写真は芸術か?」というテーゼが持ち上がってきた。このテーゼは暗黙のうちに「否」という答えを包含していた。20世紀に至るまで、写真は単純に芸術というハイカルチャーの下部に存在する二級品扱いだった。そしてそれに抗うため、写真はなるべく絵画に近づこうとした。様々な装飾や加工が施された。

「報道写真」は、貶められた写真と写真家の地位を向上させるための手段として立ち上がってきた。20世紀半ばまで、写真家は自分たちの撮った写真を編集段階で容易に改ざんされたり意図を捻じ曲げられたりする立場にいた。そのため1910〜20年代にかけて、ブルッソンを初めとした欧州の写真家たちは写真家による構図の保持と編集における加工の否定を掲げて「一枚の写真」の持つ絶対価値を守ろうとする。写真に「絶対的客観的真実」を読み込ませ、報道における価値と品格を与えようとした。そうした努力の中で生まれた写真群が冒頭の『決定的瞬間』である。ブルッソンは動きのある瞬間的な一枚の写真に、「現実を切り取る」写真の力を見出そうとした。

だが、と著者は続ける。そうしたリアリズム的な流れの中で立ち上がってきた「報道写真」が写真集や絵葉書、グラフ雑誌に載ることで「消費」され、普及していく中で、「アート/ジャーナリズム/コマーシャリズムの境界はきわめて曖昧」になっていく。写真は単に現実を切り取ったものではない。まず写真家による被写体の選定、構図の選定、現像時における選定、流通媒体に載せる際の選定、キャプション、などなど数多くの変数が間に挟みこまれている。また写真を展示したり掲載したりする際、どういう並び方にするかによってもまた受けての印象はかわる。そしてそれらの選定には、あらかじめ写真を見る側の「欲望」が先読みされていることがある。

リテラシーの必要性

そのような過程を知らず、「現実を切り取った」ものとして写真を無謬なるものに仕立て上げるのは危険でありまた見る側の「リテラシー」が必要だ、と著者は述べている。第二次大戦中のプロパガンダと同じ手法で大戦後はアメリカの進歩主義的「ヒューマニズム」が素朴に写真の力によって喧伝されたように、写真はいかなる恣意性からも逃れることは出来ない。そしてそうした恣意性を脱色することは、写真の「写していないこと/写せないこと=表象不可能性」を丸々見落とすことになる。戦争写真などはまさにそうである。キャパの「崩れ行く兵士」などはむしろ例外的で、戦争という極限状態は多くの場合事後的にしか映し出せない。ナチス収容所の例などがその典型例である。

また個人的にはベネトン社の広告を手がけたオリヴィエーロ・トスカーニの話も面白かった。彼は1980年代から、アパレルメーカー・ベネトンの広告を手がけてきたが、彼の作る広告は斬新を超えてショッキングであった。コンドームがひたすら並ぶ写真、血まみれのTシャツとジーンズ、母親から今取り出されたばかりの血にまみれた胎児。こうした写真の片隅にひっそりとベネトンのコマーシャルロゴが入る。ベネトンの商品とは全く関係が無い。当然、賛否両論の激論を巻き起こすことになるのだが、トスカーニにとってはむろん折込済みである。それらの写真はもし「報道写真」としてグラフ雑誌などに載っていたら、たいしたことのない写真として容易に「消費」されてしまうだろう。だがそれが「広告」という媒体を通して世に出たとき、かような苛烈な反応を引き起こす。そしてそのことは、写真そのものではなく我々見る側の意識が写真の在り様を決めているということが明らかになる瞬間でもある。

「共犯関係」の入門書として

ヨーロッパ近代写真史をなぞりながら、「報道写真」の成り立ちとそれのアートやコマーシャリズムとの不可分性、編集の際の恣意性、写真の表象不可能性などを鮮やかに、軽やかに記述する筆者の技量は読み手にリズムを与える。さくさくと引きこまれてしまう。また作品名が出てくる場合は適宜サムネイルが付いており、それだけでも門外漢には勉強になる。

ただ新書で分量が限られているため、サブタイトルにある「倫理」にまでは深く突っ込めていなかった。もちろんそれこそ新書一冊どころか単行本一冊でも全く足りない重厚なテーマであろう。一応、そのテーマを追うために参照すべきとされる本は何点か挙げられていた。ロラン・バルト『明るい部屋』、スーザン・ソンタグ『他者への苦痛のまなざし』、西村清和『視線の物語・写真の哲学』など。本書を出発点として、参考文献を当たりながら見識を深めていくにはちょうど良い入門書であった。

著者はあまり突っ込んでいなかったが、写真のみならず動画やその他のメディアに置いても「撮る側の恣意性」と「見る側の欲望」の共犯関係は常に意識する必要がある。特にインターネットの普及によってそうした関係は偏在化しつつある。秋葉原通り魔事件で現場写真を撮る者の倫理という問題が問われたが、そのような問いは報道写真の成立当初から常に生じている問題であり、それらをまず参照することが先決であろう。むしろ問題は技術の進歩により、我々見る側の「欲望」が用意に叶えられるようになり、撮る者見る者の共犯関係が偏在化したことにある。それは単純に撮る側の倫理を正すだけで済む話ではない。見る側の欲望をどう扱うべきなのか、そのコントロールの不可能性/妥当性という点も含めて考えなくてはならない。その際本書で明らかになるような、「報道写真」なるものが成立した歴史的経緯は大いに参考になるだろう。