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「承認」だけでは済まぬ問題たち―物語と承認の彼方に

「承認」の話が自分の観測範囲内でちょくちょく見られるので後出しじゃんけんをしてみる。「ロスジェネ」のシンポでも色々話が出たようだが、パフォーマンスと言えどナイーヴな議論も出たようで、またいくつかの議論はその焦点がぼやけているものもある、と思ったので書いてみた。彼女が出来れば、セックスできれば、コミュニティに所属すれば、作品を認めてもらえれば、「承認」にまとわり付く諸問題は解決する、というわけではない。問題はその深層にある。

自己の連続性としてのアイデンティティ

「承認」と一口に言ってもそれは様々なコンテクストの中で語られ、また意味を持つ。だからこそはてな村で延々と議論されまた車輪の再発見をもたらしうるのだが、それではちょっとノイズが大きすぎるので、社会学者のアンソニー・ギデンズに拠って(彼の)「アイデンティティ」論に置き換えてみる。

まずは引用から。

自己アイデンティティは、生活史という観点から自分自身によって再帰的に理解された自己である。*1

ある人のアイデンティティは行為のなかにあるものでも、他者の反応のなかに――これは重要であるが――あるものでもない。むしろ、特定の物語を進行させる能力のなかにあるものである。*2

ここで言う「アイデンティティ」とは、自分はこれこれこういう人間である、という自分についての「物語」を持ち、かつそれを維持していく能力のことである。例えば大学を出てサラリーマンになって結婚して子供を持つ、そういう人生送ってきた人間は、そうした過去によって現在があるのだと感じ、またそれに基づいて未来への予測をつける。このように自分の「物語」が過去・現在・未来において通時的連続性が保たれている状態を「アイデンティティが保たれている」と呼ぶ。

逆に言えば、この「物語」の一貫性が失われたとき、その人のアイデンティティは保持されなくなる。典型的なのは大きな病気や事故である。それらははその人の物語を中断させ、苦痛に満ちた、「物語」に回収することを承服せざる人生へと彼を追いやってしまう。

ただし、人は最初から単一の物語を生きているわけではない。複数のレイヤーからなる複雑な人生を生きている。その中でどれをどのように自分の「物語」とするのか、そうした取捨選択が常に行われる。*3
「承認」とは、人生の中に散らばった出来事の中から、どれを「物語」のうちに組み込むのか、その判断材料だと考えている。例えば僕は「自分は大学生で、社会学を学んでいる人間だ」という物語を持っていたとする。これはゼミなり授業なりの大学生活を送ることで日々維持される。ところが周囲の人間から「部屋に引きこもってネット三昧の君が大学生?wwwニートの間違いだろJK」「君、社会学やってるとかこの成績で良く言えるね。卒業だぁ?ここは病院じゃないんだよ。」*4等々言われ続ければ、つまり「承認」がえられなければ、当然僕は「自分は大学生で〜」という自分史を「物語」として採用できないし、そうしていたとしてもたちまちその物語は破綻する。

そして承認がない、アイデンティティの喪失という話をするときに問題となるのが、アイデンティティを保持する際の「自明性」である。上で書いたように、アイデンティティを保つには、「物語」の連続性を保つには日常生活におけるほんの小さな「承認」さえあれば良い。わざわざ「承認された!」とか感激するレベルのものは必要なく、そこに疑問を挟み込まない、「自明である」状態が保たれればそれで良い。逆に言うと、「私は何故このような人生を送っているのだろう」「私は何故このような『物語』を選んでしまったんだろう」という疑問を抱いてしまうと、「自明性」は崩れ、アイデンティティの保持は難しくなる。ランニングマシーンの上で走っているときに、「何故私は走れているのだろう」「何故足は動くのだろう」などと考えたらあっという間に足は止まりランニングマシーンから振り落とされる。

「幸福の神義論」―物語の正統性をどう確保するのか

自分の「物語」を相対化してしまい、「他にもありえたはず」の自分を想像してしまうと、そしてそれがリアリティを持ってしまうと、アイデンティティの危機に陥る。ギデンズのみならず多くの識者が言うには、近代、特に「後期近代」と呼ばれる現代にあっては、こうした「他にもありえた自分」に容易に遭遇する。シノドスα2〜3号やその他の著作において社会学者の鈴木謙介が「幸福の神義論」と呼んでいたのはこうした問題群だと思われる。人生40年生きてきて今までそれなりに幸せだと思っていたが、様々な情報に接してみると本当はそうじゃなかったんじゃないか、他にも幸せな人生がありえたんじゃないか、そういう疑問を持ってしまう。自分の「物語」の正統性をどう調達するのか。批評家の福嶋亮太氏が自身のブログで挙げていた「神話」「スピリチュアル」などはこうした問題を解決するのに使われる。「前世」などのスピリチュアルな言説は、個人の「物語」を直接構成するわけではなく、その物語の彼岸において、物語の正統性を後ろから照らし出す。そしてそうしたシステム全般を「神話」と呼ぶ。前世がこうだったから、あなたの「物語」の選択は正しい。こう言われることで、アイデンティティは保持される。またギデンズは同じ文脈で「セラピー」の重要性を挙げている。

同じく批評家の藤田直哉氏がブログで「承認する人間への承認」と名づけた問題は、この「物語」の正統性を担保するシステムの構築、ということになるだろうか。ただこれはかなり難しい問題である。というのも巷で言われるような「承認がない!」というのは、実はほとんどがこの承認する者への承認、物語の正統性の確保という話に繋がるからだ。
そしてこの問題が解決困難なのは、ひとえに「見てしまったこと/知ってしまったことは、見なかったこと/知らなかったことに出来ない」という不可逆性にある。「他にもありえた自分」を想像してしまった人、「私は本当に幸せだったのかしら」と疑問を抱いてしまった人は、その想像なり疑問なりそのものを「キャンセル」は出来ない。逆に言えば、そうした疑問を持たなければ、たとえ一般的に見て辛い境遇でも、物語の正統性を確保して生きている人はたくさん居る。例えば「フリーター」という境遇。このブログでもたびたび言及している労働社会学者の新谷周平の論文に出てくる「地元のつながりを異常に重要視する若者」たちは、たとえフリーターや無職であっても自分たちの生き方を相互に承認しあい、特に実存的な問題を抱えることなく生きている。そこには彼らの物語に正統性を与えるようなカルチャーが存在している。逆に彼らは、そうしたカルチャーに耽溺する限り、その境遇にずっと居続けるだろう。

ただこうした人々はむしろ例外であり、歴史的にも近代国家は規律訓練の過程を利用して「あるべき自分」を人々に見せ続けてきた。ベネディクト・アンダーソンの言う「巡礼」である。後期近代においてその役割は民間企業に取ってかわられた。企業内部では「自己分析」とそれに続く「キャリアデザイン」を要求される。消費社会においては、メディアを通じて「あるべき消費の姿」を見せられ続ける。

過食症社会―我々を飲み込み、吐き出すこの社会

福嶋亮太氏が言うように、こうした状況はもはや不可逆的であり、かつ物語の正統性を調達するシステムは益々見えづらいものになっていくだろう。ジョック・ヤングは我々の生きるこの後期近代を「過食症社会」と呼んだ*5。社会は我々に「あるべき自分」「こうであったかもしれない自分」を次々に見せてくる。文化的な側面―主に消費文化―においては社会は我々を「飲み込む」。だが一方でなかなかその「物語」の正統性は与えてくれない。その物語を選んだ自分を承認する根拠を与えてくれない。そうして社会は我々を「吐き出す」。

「物語」の正統性の調達。幸福の神義論。承認する人間への承認。この難儀な問題を考えるに当たって、単に性的欲求を満たせば良いとか経済的な補助をすれば良いとか言った議論はあまりにナイーヴであり、また先人たちによって棄却されてきた。我々が欲しているのは、単なる承認でも物語でもなく、その奥にあるアイデンティティの統御システムである。その崇高なるシステムにアクセスできる人間は減っており、また今後も減り続けるだろう。そこから漏れた人間はどうするのか?一つは小さな集団の中で物語の正統性を調達する「カルチャー」を作ることだ。だが社会的ステータスの確保と「あるべき自分」の達成が関連付けられた社会に置いては、「カルチャー」の中で耽溺することは社会のババをひくことに繋がるかもしれない。むろん既に社会的ステータスを持っている人間が同じことをする例もあり、その象徴がホリエモン逮捕以前の六本木ヒルズカルチャーであった。

哲学者東浩紀の言う「動物」は、この難問に対する一つの解であったと思う。そして秋葉原の事件はその解の正当性に小さな傷を付けた。その傷は次第に大きくなりつつある。動物にもなれなかった者の意義。

ギデンズの予言を受け入れるならば、我々は日々どうにか物語の正統性を見つけようともがきつつ、時にセラピー的な外部装置によってそれを調達する。その繰り返しで生きていくのだろう。過食症社会の中で、「飲み込まれ」ながらもどうにかこうにか「吐き出され」ないようにギリギリのところで繋がる。その往復運動の中で擦り切れながら、人生を終える。それはおそらく不可逆的である。そんなのは嫌だ?では「ドラッグ」に頼るしかあるまい。*6「あるべき自分」「こうであったかもしれない自分」も、過去も未来も全て忘れさせてくれる麻薬に。

*1:アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ』p.57

*2:前掲書 p.59

*3:なので「物語」の中には当然事実とは異なる出来事も混ざってくる

*4:そ、そんなこと僕は言われて無いんだから!ところで「ここは病院じゃない」は秋山仁が実際に言われたらしい

*5:ジョック・ヤング『排除型社会』

*6:http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080628/1214639591 この中段以降を参照