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形式への没入と予告.in

葬儀と資本主義―形式への没入

先日、大叔母の通夜に出てきた。よくある郊外型葬儀施設に入り親族席に座りながら、棺を囲む、葬儀会社の用意したありがちな葬儀用ガジェット(シュミラークル?)について思いをめぐらさせていた。
式が始まる前、親族に向かって葬儀会社の担当者がこう言った。「お焼香のやり方についてですが、流派に拠って異なりますが今回はお焼香は一度きりにしてください。というのも普段皆さん三回お焼香やられると思うのですが、それを意識するあまり手を合わせる時間が短くなってしまう傾向があります。なのでお焼香にかける時間は短く、手を合わせる時間を長く取れるように、そうしてください。」
魂胆としては単にお焼香にかかる時間の短縮、プログラムどおりの進行をしたいだけなのだろうが、「手を合わせて目の前にいる死者に思いを馳せるほうが大事」と言われれば確かにそうなのかもしれない、と思ってしまう。

そのとき、葬儀、もしくは宗教的な儀式は資本主義と相性が良いのだなぁと改めて感じた。葬儀は、死者への思いをその場にいる者が同時に馳せる場であるが、しかし個人の思いそのものは個別具体的であり、ばらばらである。そこで各人は死者へ思いを馳せるときの「形式」を統一することで、死者を集合的な記憶の中に位置づける。たとえ死者への思いがバラバラであっても、形式が同じなら同じように思いを馳せている、と措く。形式への没入である。
資本主義もまた、形式への没入によって成り立つ。資本主義は個別具体的な、一回性(アウラ)そのものを扱うことはできない。カタチあるものしか扱えない。貨幣という形式への没入、モノという形式への没入。1000円札は誰がどのようにそこへ思いいれようが、個別具体的な価値を見出そうがその形式は1000円札としての価値しか生み出さず、資本主義においては1000円札としての価値しか持たない。モノも、同じモノならばそこにどのような思い入れをもとうが形式は同じであり、また等価に扱われる。

このような類似性は無論宗教的な儀式のみに限らぬし、あらゆる場面でそれを指摘できるだろう。それが資本主義の強さであり、本質なのかもしれないと感じた。

予告.in―形式へと没入させるアーキテクチャ

話が変わるが、本日放送予定の筑波批評社Ust、「自己啓発トークラジオSURViVE」で、秋葉原事件以来話題の「予告in」を扱うらしい。この予告inもまた、形式への没入の体現者と言える。秋葉原事件前後で話題になっている「犯行予告」は、実に具体性を欠いた予告以前のものであることが多い。せいぜい時間と場所を指定して「皆殺しにする」程度のことを書き込めばあっという間にクロールされて通報、個人特定されてお縄頂戴となる。果たしてその予告がどれほど実行可能性/蓋然性があり、具体性のあるものなのか。そこら辺は全くのブラックボックスでありながら、しかしそれゆえに、具体性がないからこそそれは"Risk"("Danger"ではない)と見なされ、摘発の対象となる。書きこんだ本人の意図や実行可能性と言った個別具体的な部分は問題ではなく、その文の形式のみを取り扱っている。形式への没入である。

形式への没入は、個人が主体性を維持することの極北にある。インターネットは規範(norm)ではなくアーキテクチャによる形式への没入を可能にした。Web2.0の本質が「主体の喪失」にあるとはまさにこういうことなのだが、しかるにアーキテクチャルに人々(クロールされた「犯行予告」を通報する人・通報された「犯行予告」を摘発する警察)を形式へと没入させる予告.inは、まさにその典型例だと言えるだろう。

葬儀において我々が形式に没入するその先には、死者への想いがある。資本主義において我々が形式に没入するその先には何があるのか。何も無いといわれ続けて来たのがマルクス以降の歴史のような気もするが、詳しくないので省く。そして予告inにおいて形式に没入する人々のその先には何があるのだろうか?観念的で絶対的な「悪」だろうか。はたまた観念的で絶対的な「正義」だろうか。予告inはインターネット上の一部で苛烈な反応を引き起こしたが、しかし事態は様々な位相で同じ方向、アーキテクチャによって誘われし形式への没入、というパラダイムに確実にシフトしていくのだなと感じた。それは善悪の彼岸にある、構造的な変化である。