絶倫ファクトリー

生産性が高い

鈴木謙介の「転向」?

タイトルは釣りです。サーセン。

鈴木による「ロスジェネ論」の批判的検討

[rakuten:book:13019616:detail]

文化系トークラジオLife

文化系トークラジオLife

鈴木謙介は「論座」九月号の中で、「見る者と見られる者――秋葉原事件と”モテ”る議論」というタイトルの論考を寄せている。

タイトルにこそ秋葉原事件が入っているものの、内容はそこから大きく離れている。事件の報道によって暴かれた加藤智大のパーソナリティは、「コミュニケーションの不全」という概念に改めて光を当てることになった。はてな村でも「非モテ」議論として定期的に話題になっていたが、秋葉原事件前後でさらにその流れは加速された。そしてそれは概念として固定化されることで、――コミュニケーションの「不全」という概念にも関わらず――それはまた別のコミュニケーションへと接続されていく。それの代表格が「非モテ」議論であり、また秋葉原事件と大きく接続された「ロスジェネ論」である、としている。そしてそのとき、自らの「不全性」をネタにコミュニケーションを接続するとき、そこには絶対的な「見る―見られる」関係が存在している。見られる者は、自らの不全性を確固たるものにするために「自分の苦しみは誰もわかりっこない」といった態度を取る。そして見る者は、それゆえに彼らを非常に分かりやすい「フレーム」の中に収めて見ざるをえない、そうでなければ見ることができない。しかしそうであるがゆえに、わかりやすいフレームを通すがゆえに、見ることへの欲望は容易にドライブされる。

鈴木は、秋葉原事件において一時的に自らが事件の被害者側の当事者になったことによって、その「見る者」の視線の欺瞞性を思い知らされた、と述べている。そして昨今の「ロスジェネ」論は、その欺瞞性を挟み込んだ上に成り立つ、非常に危ういものだとしている。ロスジェネ側(見られる者)は自らの絶対的な受苦性を、社会科学的の言葉を使い、分かりやすい「フレーム」付きで売り出す。周囲の者(見る者)は、そのわかりやすいフレームを通して、決してわかりえないはずの彼らの「苦しみ」をわかったつもりになる。ここには明らかな欺瞞が存在している。そしてロスジェネ側は、このフレームに乗らない、欺瞞のゲームに乗らないものを、徹底して排撃する。このような状況に陥ったロスジェネ論を、鈴木はこう突き放す。

事実、ロスジェネ論は私たち以外の世代からもはや白い目で見られ始めているという感触を、私は持っている。

鈴木謙介の「悲哀」

以上のような鈴木の論考を読んだとき、一瞬「あれ?」と思った。ロストジェネレーションという言葉について、またその世代を生きる者として、かかる問題に非常に敏感に反応してきたのは、何より彼だったはずである。「文科系トークラジオ LIFE」の2007年1月14日放送のテーマはずばり「ロストジェネレーション」であり、彼は「思い入れの深い回」としている。その彼がロスジェネ論に疑義を挟むというのは、一瞬「転向?」と思ってしまった。
しかし手元にある「LIFE」の本を読み返してみると、そんなことはなかった。彼は「ロストジェネレーション」という言葉がもたらす、人間を「奪われた者」「被害者」という絶対的な受苦者へと誘う力を徹底的に嫌っている。「被害者として同定することで、政治的な動員に巻き込もうとしている」という政府やメディアの姿勢を、論理的にも感情的にも嫌っている。

このときに彼が嫌悪していたのは、ロスジェネという言葉で特定の世代の人々を絶対的な受苦者に仕立て上げ、自分たちの望むように動員する、政府やメディアといった「外部」の人間であった。だが今回「論座」で彼が批判する「ロスジェネ論」は、そうしたロスジェネ世代の外部の人間が使っていたロジックを、まさに彼が叩いたはずのロジックを、ロスジェネ世代内部の人間が使っているのである。
鈴木謙介自身もロスジェネ世代としてその実際の労苦をかなり味わっていると思われる。であるがゆえに、自分が非難したはずのロジックをまさか味方(であるべきはずの人々)が使い出したことに、どれほどの落胆を覚えたろうか。

「証人」になりたがる「ムーゼルマン」たち

見られる者として自らを同定し、絶対的な受苦者の立場に逃げ込んだ人々は、差し伸べられる手をも拒絶する。悲しきハリネズミとなる。見られるだけのハリネズミと、見ることしかできない我々。しかし我々はその見た目にひかれ、ついついハリネズミを見てしまう。欺瞞のフィルタを通しながら。

彼の論考を読みながら、ジョルジョ・アガンベンのムーゼルマンを思い出した。アウシュビッツの中で、能動性を奪われ絶対的な受動性の塊となった「ムーゼルマン」。彼らは生きのびたユダヤ人たち「証人」によって語る言葉を持ちえた。しかし現代の「ムーゼルマン」は、自ら「証人」としてアウシュヴィッツの外に出ようとしている。果たしてそれは上手くいくのだろうか。答えはそう遠くないうちに出るだろう。