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絶倫ファクトリー

生産性が高い

スペイン旅行記/動画もあるよ!/Cap-tourism/フォルマルな歴史性

旅行記

15日〜22日と8日間、スペイン旅行に行ってきました。
父親のツアー旅行にくっついて行っただけなので、いわゆる「tourism」、観光旅行であり、バッグ一つでひたすら動く「旅」ではないです。

写真と動画

まず写真。

その1
その2
その3
その4
その5

実質観光は5日間。撮った写真を各日程ごとにPicasaのアルバムにまとめました。写真ごとのキャプションなどは追々付けていきます。お時間あるときにでも。

あと、20日はメルセ祭というバルセロナのお祭りの始まりの日だったそうで、道を歩いていたら前方がなにやら燃えていました。お祭りの初日は「火のお祭り」だそうで、袈裟を被った子供たちが、半径1mくらいに火花の散る棒を持って歩いていました。日本だと結構考えられない光景。

妹がたまたまその動画をいいポジションで撮っていたので、youtubeに上げました。




Cap-tourismとしての観光旅行

さて具体的な旅行の様子は写真と動画で推し量っていただくとして、旅行中に考えたことをいくつか。

昔、外国人から見た日本人のステレオタイプとして、七三分け、眼鏡にカメラというものがあったらしいが、「tourism」の中においてカメラは別に日本人特有のものでもなんでもない。日本人ツアー客は20〜30人で徒党を組むが、ヨーロッパのツアーは同等かそれを上回る規模でぞろぞろと歩き、写真を撮りまくり、ガイドの解説を無線機から伸びたイヤホンを経由して聞く。資本主義における観光に人種や民族は関係ない。

ツアー旅行は、いわゆる「名所」を最大限効率よく回ることを至上命題としているので、きちんと楽しもうとするとなかなか難しい。ぼーっとしてると単に名所・名物の写真をひたすらCaptureしまくるだけの「Cap-tourism」に陥ってしまう。今の時代、それはGSVの撮影車に任せておけばいい。ツアーのある同行者の方が、アルハンブラ宮殿の丘からグラナダの街を見て「画になるなー」と言いながら写真をパシャパシャ撮っていたが、その「画」というのは記憶の中に散らばったシミュラークルのことである。現代において、シミュラークルマッチポンプである。消費されることで再生産される。Cap-touristはその円環を支えるギアである。自分の脳内アーカイヴにあるシミュラーク合致する「名所・名物」の写真を撮り、それをたとえばPicasaに上げ、動画をyoutubeに上げあまつさえブログで公開して衆目に晒し、さらなるシミュラークルの頒布に加わるなどというのはまさにその典型例であってつまりその……。ええ……。一回やってみたいじゃないですか、「旅行の動画をyoutubeにアップする」とかシリコンバレー的リア充なこと……。

フォルマルな歴史性の継承

上記のアルバムその2に、マドリードの北部にあるトレドという街の写真がある。ここの大聖堂はイスラム建築とカトリック建築の様式が複雑に混ざる非常に珍しくまた美しいものなのだが、大聖堂だけではなく旧市街地はかつてこの地に住んだユダヤ人街の建物をそのまま保存して使っている。暑さをしのぐための白い漆喰の壁がスペインの青い空と突き刺すような日差しに映えて、近景でも遠景でも非常に美しい。スペインはどこの街でもこのように数百年から千年の歴史を持つ建物を保存し、一般の住居や商業・公共施設として使っていた。ヨーロッパではこうした光景は珍しくない。
建築素材が石材中心で、地震が少ないという好条件も重なっているのだけれど、「歴史性」を物語(ナラティブ)ではなく形式(フォルム)に乗せて継承するという手法が、街にありふれているのは羨ましいと感じた。彼らはとかく建築の様式にこだわる。レコンキスタ完了後、イベリア半島のキリスト教徒たちは、あたかもイスラムの様式を食いつくさん威勢でモスクの周りに増築を重ねる。イスラム建築様式で作られたモスク。石造りで強固である。日本ならとりあえず放火すれば大方は燃えるがここではそうはいかない。彼らは時代や状況に合わせてゴシック・ルネサンス・バロック・ムデハルと徹底して形式にこだわって増築を重ね、モスクを飲み込んでいく。

ナラティブにではなく、フォルマルに歴史性を調達していくという街のあり方は、少なからず住む人の意識に影響を与えているのではないかなと感じた。

……だがこうした建物の保存に際しては住人の行動にかなりの制限がかかる。勝手に増築したり改造したりすることは許されない。しかし補修にかかる費用に対する行政からの助成金は街によってかなりばらばらだ。トレドの場合は助成金がわずかしか出ていないため、負担に耐えられず人が流出する一方らしい。日本でも函館でそのような事例があった。

歴史性を担保する、という機能を第一義に考えた場合、規模を縮小して一部を博物館のように特別に保存し、住んだり商売をしたりという日常的な機能を削減するのは、しかし本末転倒のような気がしてならない。通常の生活、「必要」から来る日常の営みの中に組み込まれているからこそこうしたフォルマルな手法は意味がある。前の文と矛盾するようだが、単なる「名所」化・特殊化の中で保護するだけでは、物理的には守れてもその形式が継承する歴史性まで守れるのか。「名所」化させてガイドとパンフレットにテンプレートな説明を語らせることは、シミュラークルとしてのイメージ、ナラティブしか生み出さないように思える。特殊化させず、つまらないシミュラークルの中に埋没させることなく、「必要」が生み出す日常生活の中に組み込むことで、ようやくフォルマルな歴史性を保持できるのではないか。

無論、そんなもの保持することなくひたすらメタボリックに変化を遂げていく姿も、それはそれで面白いのだが。