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『アキハバラ発 00年代への問い』を読んだ

アキハバラ発〈00年代〉への問い

アキハバラ発〈00年代〉への問い

今年の6月8日に発生した秋葉原通り魔事件について、さまざまな論考を載せた本。

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

アキバ通り魔事件をどう読むか!? (洋泉社MOOK)

7月末に出版された『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』に続き、この系統では二冊目の本になる。(関連エントリ:『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』をどう読むか。 - No Hedge!

東浩紀によるメタ視点語り殺し

秋葉原事件を語る際、その手法は二つに大別される。一つは事件に関して、自分の専門分野に引き寄せながらベタに論考を進めていく手法。二つ目は、事件に対する論考に対する論考、事件がいかに報道されいかに語られたかについて語るメタ言説である。
一つ目は、この事件に関して言えばしばしば批判を浴びてきた手法でもある。特に若い世代やその言説空間たるウェブからは、事件を安易に物語化し、ワイドショーのコメンテータ的に振舞うことに強烈なフォビアが見られた。
そうしたことを意識したのかしなかったのか分からないが、この事件においては二つ目のメタ言説的な語り口が多かったように思う。また「語るとしたらそういう方法しかないよね」といった向きもあったのかもしれない。「空気を読んだ」結果なのだろうか。

そしてこの『アキハバラ発〜』で面白かったのは、東浩紀がインタビューの中で二つ目の「空気を読んだ」タイプの言説を一刀両断にしていることである。

とはいえ、今回の事件については、さきほども述べたように、むしろ事件について過剰に読み込む行為そのものが愚かなんだというタイプの言説が拡がっており、それは問題だと思いました。そういうメタ言説は、賢いように見えながら、それこそクリシェ(決まり文句)であり何も考えずとも発せられるものです。そういうクリシェの蓄積が、結果として社会的包括の回路をますます衰退させていく。
アキハバラ発 00年代への問い』(岩波書店) p.65

この引用文の面白いところは、東のこの文章によって『アキハバラ発〜』に掲載されている複数の論考も吹っ飛ぶという点である。『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』についても同じ。
とは言え、一つ目の手法、つまりメタではなくベタにこの事件を語るにしても、ブログ界隈を見渡せば容易に手に入り、かつ論駁できそうなものがいまだマスメディアにあふれているものも事実である。「ガス抜き」「既存のメディアや年長者には何一つ期待できない」(『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』の荻上論文より)という指摘が失効するわけでもない。
つまりこの事件についてベタに語るにせよメタに語るにせよ、「面白い」言説となるにはかなりハードルが上がっているということになる。有り体なクリシェを抜け出して、実のある言葉を紡ぎだすことのハードル。これはこれで言説空間内の自浄作用というか、シミュラークルが跳梁跋扈するよりは良いのでは、と読者側としてはのんきに考えているのだが。

お勧め論考ピックアップ

そんなわけで、上記二冊の秋葉原事件本から、個人的に面白かったと思えるものをいくつかピックアップ。ベタ語りとメタ視点にそれぞれ分けている。

『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』(洋泉社)

■ベタ語り

・「社会的包括の崩壊が「孤独な勘違い」を生む!」宮台真司
・「秋葉原事件と「ゲーム的」現実感覚」東浩紀

■メタ語り

・「物語の暴走を招くメディア/メディアの暴走を促す物語」 荻上チキ

……あまりにもあまりにもなラインナップで自分でもこれでいいのか他に無かったのかと思ってしまうが、現に他の論考が面白くなかったので仕方ない。「面白いか面白くないか」の点で切り出すと、結局自分の感性に合うか、つまりどういう環境で自分の感性なるものが構築されているのか話になるので、そんなもんだろう。
宮台論文は社会的包括の重要性と秋葉原事件を絡めて説く、いつものスタイル。東浩紀に至ってはタイトルだけで中身が分かるスタンダードっぷり。2人とも一切空気を読まず持論を展開しており、面白い。

荻上論文は、「空気読むならせめてこのくらいはやれ」といわんばかりのもの。短いけれど、メディア論的なメタ語りはこれ一本でいい気がする。


アキハバラ発 00年代への問い』(岩波書店

■ベタ語り

・「若者を匿名化する再帰的コミュニケーション」 斉藤環
・「無差別の害意とは何か」 中西新太郎
・座談会 <承認>を渇望する時代の中で 大澤真幸 平野啓一郎 本田由紀

■メタ視点

なし

メタ視点の話については、無かったわけではないのだけれど、ほとんどが論考の冒頭でメタ視点的なことをいいつつベタに語るという、中途半端に空気を読んだ論考であった。頭に言い訳つけてる時点で面白くないのは『アキバ通り魔事件〜』でよく分かったのでその時点でカット。

斉藤論文は、いつものといえばいつものだし、でも結局面白いので上手いのだろうなと。
中西新太郎については、彼が60歳だったことにびっくりした。もっと若いかと思っていた。ラノベなどを引用しながら「誰でも良かった」というクリシェにこめられた「薄い生」の仕組みを明かす様は、なるほどといわされる。
座談会については、作家の平野啓一郎の話が非常に面白かった。事件直前に出した『決壊』という小説と事件との類似性から、彼がどういう意図で『決壊』を書き、どういう視点で社会を見ているのかが語られている。東や鈴木謙介が「文学の側からの声が足りない」と言っているが、確かに完全な文学畑からの論考は二冊合わせて彼くらいなのではないか。これはちょっとアンバランスな気がする。

偶然か、必然か

内容について気になった点が一つ。『アキハバラ発〜』の論考の中で、斉藤・東の両氏が、人生の若者の間に人生の「偶然性・ギャンブル性」といった感覚が共有されているのでは、という指摘があった。成功したものも、失敗したものも、偶然こういう人生になってしまったのだと。それがときに失望感を生んでいると。
ただもしこれが事実だとすれば、「若者」が感じているのは偶然の名を借りた必然でしかない。筑波批評社の文章でも書いたが、「偶然こうなってしまったのだ」→「だから仕方がない」という連鎖は、偶然を経由した必然性の密輸入である。自分を取り囲む大きな世界が作動し、周りに周った結果自分が現在の境遇に至ったのだという思考は、確かに自分の手の手の施しようがないという点では偶然的だが、「だから仕方がない」という諦念につなげてしまっては、他に選択肢がなかったかのような、宿命論が首をもたげてくることになる。それは結局、陳腐な自己責任論と過程は違えど結論を同じにすることになる。
そうではなく、自分の境遇が偶然ゆえであるなら、あきらめるのではなく他の自分もこの先あるかもしれない、という思考に持っていくべきだろう。偶然だからあきらめるのではなく、偶然だからこそまだ希望がある、と思わねば、自分と世界をショートサーキットさせてしまう。それは世界がダメ→自分もダメ→いっちょ人でも殺しますか のパターンから抜け出せない。もう少し、偶然性を肯定的に捉える思想こそ、今この時代に必要な気がする。