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『ロスジェネ 別冊』

ロスジェネ 別冊 2008―超左翼マガジン

ロスジェネ 別冊 2008―超左翼マガジン

文フリで買い損ねてたまたま今日本屋で見つけたので購入。六月に行われたシンポジウムの書き起こしがメイン。
一つおおと思ったのは、色々と議論を巻き起こした増山氏の例の発言がカットされずに残っていたことだ。僕は当日会場にはいなかったのだが、その場で流されて言ってしまうシンポジウムの言葉と書き起こされた文章では持つ意味が、というか持たされる意味が異なる。「言質取ったり」ということだ。

受動性を掛け金にしたコミュンケーション

さて議論の中身なのだけれど、例によって承認の話である。赤木論文が承認の話と経済格差の話をごっちゃにしていて、そこを分離して考える必要があり、そして承認の欠如の問題は非常に解決しづらい、困難な問題だということになっている。
前々からこのブログで書いているのだけれど、僕はマスメディアが外からその名を押し付けるのと同じくらい、時にそれ以上に「ロストジェネレーション(ロスジェネ)」という言葉をその当事者が一人称として使うことに問題があると思っている。これは雨宮処凛氏の文章で「救う/救われる」という言葉が多用されるのと同根の違和感だ。そこには受苦者としての当事者性、苦しめられているという受動性が前面に押し出されていている。それ自体は特にどうこう言う次元にはないのだけれど、ではしかし、彼らは一体何をしたいのか。<政治>(小文字の政治と大文字の政治を架橋する行為も含める)的行動をしたいのならば、それはそうした受動性を掛け金にしたコミュニケーションでは続かない。当事者性、受動性を掛け金にしたコミュニケーションは、そこに関わる人間の数や規模が一定の大きさを超えると、成り立たなくなる。でなければ規律訓練とそれを経由した官僚的組織による近代国家など立ち上がらなかった。政治とは結局のところ中枢権力までの道のりにあるいくつもの中間組織を行き来することであり、テロリズムはそうした正規のラダーをショートカットするところに意味がある。
話がそれた。当事者性を掛け金にするのがいけないのではなく、それはあくまでかなり地に足の着いた、現場の運動のためのドライビングテクニックである。おそらくそうした運動を行うためのモチベーションというか、「御旗」としてこうした雑誌が出来上がった経緯もあるのだろう。しかしその御旗は、その成り立ちゆえに、ある一定のレベルで止まることが運命付けられている哀しき御旗であるように思われる。

ルーティンとしての<日常性>

あとこれも何度も書いているのだけれど、承認の問題もちょっと気を許すと承認を「与えられる」側と「与える」側という決して埋められない非対称性が頭をもたげてくる。承認は風邪薬ではないので、用法用量を守って一日何回投与したところで効果が分かるわけではないし、そのような予想も出来ない。では何のための承認か。承認があるとどうなるのか。ルーティンワークとしての<日常性>が維持される。逆に言えばその<日常性>の循環を止めない、妨げが無い、という程度に承認があればいいのであって、何か特別なものが授けられるという次元の話では無い。にもかかわらずそうした承認の無さみたいなものが問題になるのは、僕らが消費者的態度に慣れきってしまったから、つまりサービスの受容者としての立場に慣れきってしまったからだ、とトンデモの一つも言いたくなる。色々と踊らされすぎている。ストップ&スルー、できれば&シンク。

世代間闘争は果てしない

あと世代間闘争だ!みたいな話も、既に中年差し掛かりの正社員が敵なのか年金食い逃げ団塊組が敵なのか、既にシンポの時点でターゲットがぼけていて、それは今も変わらない。というか現時点だとむしろ新卒の就職環境が良かった世代(僕らの世代!)とその上下でまた区切りが入るので、いくらでもそんな風に細分化できてしまう。それも無論当事者性を掛け金にコミュニケーションすることは可能だけれど、つまりそれでコミュニケーションが可能なレベルにしか話が広がらず、閉じていく。細分化された/勝手に自ら細分化した世代が互いに勝手に泥水をぶっ掛けあい、最後は何も残らない。

かくて戦争は始まりけり。軍靴の音もなく。

そして何より世界恐慌である。「希望は戦争」というフレーズも忘れられかけているけれど、もう実際に戦争はやってきた。そしてロスジェネの名前は吹き飛んだ。誰が望んだのか知らないけれど、そうなった。敵はどこにいった? どこにもいなかった? それとも周りの全員敵? ならばむしろ話は早いのだけれど。