絶倫ファクトリー

生産性が高い

ブログにおける議論の「強度」と「文脈」

最近、ブログ(と言ってもはてな周りが主なんだけど)がつまらないなと思う。何故か考えてみた。

ちゃぶ台返しと議論の「強度」

ある物事に関して、色々と不平不満を立て並べた挙句、「こうしたほうが良い」という改善点までご丁寧に指摘しているエントリーがあるとする。ブログを見ていれば四六時中目に付くタイプのエントリーだ。
それに対して、「そんなにアイディアあるなら、じゃあお前がやれ」と一言付けて突っ返す人がいる。これはちゃぶ台返しだ。「それ言ったらおしまいでしょう」と。なので元のエントリーを作った人は、そうした言葉を「不毛だ」「非建設的だ」と非難する。確かにそれはそうで、ちゃぶ台返しちゃぶ台返しでしかない。それをやっちゃうと後に全然全うな議論が続かなくなる。
けれど、たとえそれがいかに不毛であろうと、いやむしろ不毛であるからこそ、その「ちゃぶ台返し」はすごく強力なのだ。覆水盆に返らず。一度「お前がやれ」の一言で<糸 冬 了>してしまった議論は、元に戻すのが難しい。例えは良くないかもしれないが、殺人犯をどれだけ口汚く罵ったとて、冷たくなった身体は生き返らない。現実の人間ならばそれじゃ困るので法や警察があるのだが、ブログのエントリーなど誰も守ってくれない。後は、そうした不毛なちゃぶ台返しを避けるような文体・文面にするしかない。自己防衛だ。

プロパガンダと議論の「文脈」

そうした、エントリーの「強度」みたいなものは、「誰にも突っ込まれないガチガチのエントリー」であることを担保するものではないし、そもそもそういうものは目指すべきじゃない。それは「議論」のための強度ではなく、保身のための強度でしかない。保身であるならまだしも、それは時にプロパガンダ的手法にも走りかねない。
ある二つの選択肢を提示し、一方を絶対的正義、一方を絶対的な悪として、後者を支持する人間を徹底的に貶めるエントリーなども見る。これはもはやプロパガンダ、というかチキンレースみたいなもので、その人の議論の土俵に乗っかった時点で既に負けは決定している。何故ならこの手のエントリーは最初に提示した二項対立以外の選択肢を許さない。そしてこの手のエントリーの最大の敵は、そうした自分のエントリーのフレーム以外の視点を持ち込む人間であり、議論以前に徹底した罵倒でもって排除する必要がある。たとえそういう指摘をした人が、いくら誠実な応答を重ねようとも、周囲からは「馬糞の投げ合い」「泥水の掛け合い」に見えて、終いには「ま た あ い つ ら か」となる。結果、誠実な指摘もエントリー主のプロパガンダ的文脈に飲み込まれ、誠実な対応をしていると思っているのは当の本人だけとなってしまう。それがいかに事実として誠実であったとしても。
こう書くと、なんだか見ている人の目線を意識しすぎだとか、自意識過剰だといわれそうだけど、可視化されたインターネット上で議論するということは、そういうことなのだと思う。そうした、周囲の人から見たときの「文脈」みたいなものにあまりに無頓着だと、まさに「正直者がバカを見る」世界になる。

縦の文脈=コメント欄、横の文脈=トラックバック

そういう議論の「文脈」みたいなものには、ブログの場合「縦の文脈」と「横の文脈」がある。縦の文脈は、コメント欄を使った議論だ。コメント欄での議論はそのエントリーページにとどまるので、良くも悪くもエントリーの言説にひきずられるし、エントリーの内容もまたコメント欄を含めた文脈に回収される。プロパガンダ的エントリーは縦の文脈を特意とする。二項対立の外から視点を持ってくるコメントはそのつど排撃するか削除するかで良い。そうやって自分の文脈に絡め取っていく。
一方で横の文脈は、トラックバックを使ったエントリー同士の議論だ。これは時に例えばAというエントリにトラックバックを打ったB'というエントリにトラックバックを打ったC''……という風に延々と横にずれていく可能性もある。そうなると最初のエントリーからはずいぶん議論されていることが異なってくることもあるのだけれど、逆に言えば一つのエントリーが議論全体を支配する傾向は弱まる。往々にして元のエントリーから「血縁関係」が薄いエントリーほど、中身も薄くなるのだけれど、まぁそれはそれで健全なのかもしれない。

「ナナメ上の文脈」としてのはてブ

そしてはてなブックマークというのは、このどちらでもない「ナナメ上の文脈」を作り出した。ブックマークコメントがずらっと並ぶエントリーページを見ると、「縦の文脈」のように見えるけど、厳密には元エントリーとは切り離されているので、違う。縦の文脈の要素と横の文脈の要素が交差し、ちょっとズレてしまった感じ。
ナナメ上の文脈では、そもそも議論が成り立つのか怪しい。ブックマークコメントを使って、プロパガンダ的手法を押し付けてくる人もいるかもしれない。けれど、ありがたいことに先月25日のリニューアル以降、ブックマーカーを自分の目から見えないようにする「非表示」のシステムがやりやすくなった。
けれどそれだと自分が見えないだけで、相変わらず他人の目にはずらっと並んだブックマークコメントによって「文脈」が作り出されていくように見える。finalvent氏が「ブロックしたIDリスト」を共有してもいいんじゃないと言っていたが、アリなアイディアだと思う。共有されるうちに修正が入りカドが取れていき、最大公約数的なIDが排除される。それは「見たくないものを見ない」のではなく、議論の文脈を過度にゆがめる要素を取り除くことで、エントリーの書き手に議論の文脈を作り出す責任やインセンティブをもう一度戻そう、という試みだ。さもなくば、ブログのエントリーは専門用語や身内のジャーゴンで固められた、極めて保守的な強度を持つか、二項対立的な発想を強いるプロパガンダ的強度を持つかになってしまい、全うな議論の文脈を作り出せる強度を持ったエントリーを書こう、という人はどんどん減ってしまうように思う。というか減ってしまったのが今のこの現状なのだろう。「ブログで議論など最初から無理だろJK」などニヒリズムに走るのは簡単だけれど、そうやって先細りさせてしまうにはあまりに勿体無いメディアだと思う。ブログってのは。

エントリー主にかかる負担が大きすぎる

何が言いたかったのかというと、結局ブログにおける議論というのは、コメントなりトラバなりが織り成す言説の連なり=文脈によって判断される。そしてよりマシな議論の文脈を作り出せるかどうかは、元のエントリーが持つ「強度」にかかっている。けれど現状の(厳密に言えば、はてな周りの)システムは、エントリーの書き手にあまりに負担が大きく、またそんな強度を持たせようというインセンティブも発生しにくい。ウェブ2.0という言葉が廃れていったのも、マーケティング用語としての域を出なかった、その言葉で指し示された現状があまりにお粗末だった、というのもあるかもしれない。もうちょいどうにかしようという意志をユーザーが持たないと、多分「ブログで議論」など、「21世紀にはチューブ型の道路が空中を走っていて」レベルの絵空事だったと思われてしまう。しかしそれで終わらすにはちょっと勿体無い、もうちょっと良い使い方あるんじゃないか、という危機感がどっかにある。

やっぱtwitterなのかな。