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CAMP:TALK:1203 「アートと公共性」 あるいはChim↑Pomについて

を聞きに行ってきた。「アートと公共性」というタイトルだったのだが、僕はアート方面はからきしなので、「公共性」の方にアクセントを置いたつもりで話を聞いてきました。
……というのも半分本当、半分冗談で、この場にいた大半の人がそうであったように、例の「ピカッ」事件の当事者である「Chim↑Pom」のリーダーが卯城氏が来るということで、半分は野次馬根性でした。

あと以下の文章で僕が使う「アート」というのは、このトークイベントのコンテクストからするとおそらく(言ってる本人がおそらくというのも変だが、知識がないので)現代アートのことを指しているのだと思ってください。

純朴な「対話」への意志

http://ca-mp.blogspot.com/2008/11/talk-1203.html

共同体と“開かれた”アート 〜アートと公共性の関係〜
第一夜:アートは、何とどうやって関わっていくのか

<ゲスト>
東谷隆司(キュレーター)
池田剛介(美術家)
卯城竜太(Chim↑Pom
遠藤水城(キュレーター)
川崎昌平(アーティスト)
杉田敦(美術評論家)
<モデレーター>
Arts and Law(作田知樹)

Chim↑Pomの「ピカッ」事件、世田谷美術館横尾忠則展で地元教育委員会が鑑賞中止を決めた事件など、 日本各地でアートと共同体との緊張関係が取りざたされた2008年。
■ 美術史をひもとけば、かつて公共的な空間に出現したアートの中には、リチャード・セラの『傾いた弧』、クリストや川俣正、クシシュトフ・ヴォディチコの一連のプロジェクトなど、公共空間そのものを作品/プロジェクトの成立に不可欠な場としたものだけでなく、そこから公共空間におけるアート、あるいはアートと公共性をめぐる有意義な論争を導いたものが数多くありました。
■今回のトークイベントの開催は、最近の国内での事件をきっかけにしていますが、その是非を問うたり、社会現象として論評するのが目的ではありません。インターネットの日常化や、いわゆる“新公共管理”の手法が広がりつつある現代において、“アートによって開かれていく公共的な対話”を可能にする基盤をどう創るか? ということを改めて問い直す場となることを希望しています。

例の「ピカッ」事件の際、ネットやメディアでよく見かけた反応は「倫理的におかしい」というものが大半だった。次いで見かけたのは、「そういうスキャンダラスな反応も含めて、彼らのアートなんじゃないか」という一種の「読み」だった。そうすれば留保つきながらも一定の評価を彼らに与えることができたし、そういうことをしたかった人たちもいたのだろう。僕もそう考えていたフシがあった。

けれど、今日イベントで聞いた卯城氏の発言は意外なものだった。*1彼(Chim↑Pom)が考えていたのは、そういう風にして「何をやっても<アート>という枠の中に回収されてしまう状況」から抜け出そうということだった。実際、マスメディアなどから記者会見の場で「アートだからって何でも許されるんですか!?」という「糾弾」も多々あったらしいが、それに対する彼の個人的な想いは「いや許されるわけないじゃないですか」というものだった。事前に被爆者団体の方々に話を付けなかったことに関しても、「付けても付けなくても、世論としては多分やった後には謝ることになったんだと思う」と話していた。
ではChim↑Pomという団体は何故あのパフォーマンスを行ったのか。これも卯城氏の個人的な見解をベースにすることになるのだが、彼はしきりに「日本が平和だ」と言っていた。そしてその平和に僕らが甘えているとも。そして広島に行ったときの感想を、「内向きの論理がすごく働いている」と。それは被爆者団体のようなアクティブな市民のそれとも違う、空気というべき倫理。彼はどうもそういう内側に閉じた倫理と、それに無関心であり続けたその他大勢の人間の間に、素朴な意味での「対話」の契機を作りたかったらしい。広島の被爆者団体の人と話した時の感想も、「相手の方がかなり見識が広い方だった。もっと怒られるかとと思っていた/もっと怒ってほしかった」と言っていた。
だから今日のイベントでも、自分たちのパフォーマンスがアートとして捉えられる事に戸惑い、違和感を表していた。

これはすごくベタというか、アート的なものを通じてアートの外部とアクセスしようという試みなのだけれど、それと好対照をなしていたのが、遠藤氏だった。遠藤氏は、アートが記号化され、資本主義のレールに乗って広まっていき、パフォーマティブにそれが「アーティスト」のアイデンティファイの手段とされていくことに違和感を持っている人だった。純朴に「理念としてのアート」を信じていると。そうした想いは地方から東京へやってきて裏切られ続けていたようなのだった。Chim↑Pomに関しては、彼らが<アート>を「アートでないもの」へアクセスするための、ネガティブな参照項として扱っていたことに無念さを表していた。遠藤氏は純粋に<アート>が「公共性」なるものと純粋に繋がりうると信じていて、であるがゆえに今度の事件は自分たちの無力さを感じたらしい。

すごく両者は対立しているというか、相容れないように見える。Chim↑Pomは公共性とか理念としてのアートというものに非常に無頓着だったし、実際遠藤氏の懸念は卯城氏にうまく伝わっておらず、イベント終了後に改めて遠藤氏と卯城氏が会話していた(ここ聞きたかったなぁ)。
けれど、卯城氏と素朴な意味での「対話」が成立するのは、この会場だと遠藤氏だけだったんじゃないか、と思った。ほかの出演者の話は、ほとんどがChim↑Pomのパフォーマンスを一定の形で<アート>として規定した上で、そこを経由して何か物事を論じようとしていた。それに対し、卯城氏はそんな意識を全く持っていないものだから、周囲のそうした意図は卯城氏の身体を通じてするりとどこかに抜けてしまう。それは遠藤氏ともそうだったのかもしれないが、両者の端から見ればナイーヴとも思える素朴さが、逆に両者の結節点となりうるかもしれない。そのほかの人とは、どうも焦点が常にかするけれど合いはしない、そんな感じを受けた。

逆説的に立ち現れる「公共性」

今回の事件で、周囲はChim↑Pomを通じて<アート>なるものの輪郭を照射しようとしたが、逆に彼らは自分たちのパフォーマンスを通じて<アート>という枠組みの外に出ようとした。対話のきっかけを作り出そうとした。
今回のテーマは一応「アートと公共性」で、イベントの冒頭は実際アーレントやハーバマスの名前も出てきた。だがある意味で、あの中でそうしたハーバーマス的な討議的公共性を信じていたのは、彼だけだったのかもしれない。少なくとも彼が一番素朴に信じていたように思える。
杉田氏はハーバマス的な公共性を静的 staticなものと捉えていた。一方で「対話の契機」を作り出そうという卯城氏の姿勢は、むしろ動的 dynamicに公共性というものを作りだそうという姿勢であるように映った。このことも含めた上で深読みさせてもらえば、さてこうした現状を見て遠藤氏の失望はいかばかりかと思う。ネガティブな使い方だと感じているはずの彼らの行為が、現代では逆説的にむしろ公共的であるかのように見えてしまう現実が、目の前に広がっている。アーレントやハーバマスの言う公共性など、現実の体系としてはほとんど放棄されているに等しいからだ。

川崎氏はChim↑Pomのパフォーマンスについて、「アートって何だ」という問いを周囲に喚起したという点では評価できる、と言っていた。けれど卯城氏の発言を聞いていると、僕はむしろ逆だと思った。彼らのパフォーマンスが<アート>として語られる一方で、本人たちはそうした言説の外に出ようとした。もし今後出版物やその他の公的な発言によって彼らのそうした意図が知られ、この齟齬が明らかになったとき、「アートって何だ」という問いは、あて先不在のまま立ち消えになってしまうのではないか。その二つの立場の溝は、そうした問いを飲み込むブラックホールのような働きをしてしまうのではないか。誰がアートをそう感じた。


以上、門外漢の戯言として扱っていただけることを祈りながら書いたのだけれど、そのノリで。

ハイカルチャー/サブカルチャーの語られ方

アート以外のものを通じてアートを語るのか、<アート>を通じてアート以外を語るのか。現代アートは、それまでのアートが常識としてきた、歴史的な経緯、知識の体系を経由した作られ方、見られ方(いわゆるリテラシー)を放棄した。そしてそうしたアートとそれ以外のものの境界線を利用して、その場その場のパフォーマンスに身を委ねたとき、残った道は、このいずれかだったのかもしれない。

そう考えると、文学や漫画と言ったその他のサブカルチャーは、まだ書き手・読み手のリテラシーを通じた「共犯関係」みたいなものが、かろうじて有効だった、ある種幸せな世界だったのかもしれない。ハイカルチャーは、ハイカルチャーであったがゆえに、近代化と共に<大衆>なるものとの対峙を余儀なくされ、結果特権的な体系に基づいたリテラシーを媒介に語ること・語られることを次々に放棄してきた。サブカルチャーも今そうした波に次々飲み込まれている、その最中なのだろう

*1:彼は現在、この事件に関して被爆者団体の方などとのやり取りを含めた本を書いているので、あまり詳細には書かないけれど