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「思想地図シンポジウム」+「Live Round About Journal」(前編)

もう先月の話になってしまったが、1月28日、東京工業大学大岡山キャンパスで行われた『思想地図』シンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」のレポートを書こう……。と思っていたのだが、すでにid:gginc によるレポートを始めとして、色々と出揃っている感はある。ので*1、シンポジウムの話はそこで確認された問題設定の確認にとどめ、その後31日に行われた建築系のイベント「Live Round About journal」のレポをメインに書いていきたい。
と最初は書いたのだが思ったよりシンポの話が長くなったので前後半に分ける。今回は思想地図シンポの話

例によって以下敬称略。

2つの問題設定 「切断」による恣意的な固定/ひろゆき的公共性

冒頭、司会の東浩紀がシンポのコンテクストを二つ挙げていた。一つは、

で行われていた宮台真司磯崎新の対談、つまり東―北田の「東京から考える」と並ぶ社会学系の議論による「建築家不要論」の文脈である。もう一つは、思想というものが行われる場所、つまり誰にどのように届けるのか、というコンテクストである。

ここには建築家/思想家の両者による「場所」というものに対する「危機意識」が共通して見られる。が、その話は後ほど。

全体を通して議論の核となったのは、例によってこの二つとは異なる問題系であった。一つは磯崎新の言う「切断」とウェブを巡る問題。もう一つは、2chの管理人ひろゆきのような「公共的でない(かのように見える)人が結果として公共的な空間を作ってしまう」ことの意味、である。
前者は、一言でいえば理論の現実化(actualizing)と、それに伴う有限性の問題である。磯崎新はシンポの中で、クリストファー・アレキザンダーによる「パタン・ランゲージ」理論を「実践に移す際、全て失敗した」と述べた。それは普遍的な理論が、理論の中だけで進化し続け、あたかも建築物が生き物のように捉えられることへの警戒である。メタボリズム理論などもそうだが、たとえどれだけ自生的な建築なるものを理論的に構築しても、最終的にそれは現実の世界で、重さのある建物として構築されねばならない。磯崎新はその現実化を「切断」と呼び、建築家による恣意的な固定を消極的に認めている。91年から00年にかけて行われた国際会議「ANY会議」の中で、グレッグ・リンがプレゼンしたコンピュータの中で自発的に進化を続けていく建築物のパターンを見て、「それはいつか建築にならなければいけない。どうするのか?」と問い詰めたと言っていた。その後リンが提示した答えは、それぞれのパターンを現実につくり、市場に判断させる」だったらしい。
しかし東浩紀が濱野智史の基調講演を上手くここで持ち出した。ウェブはこうした作家の恣意性から、つまり「切断」による固定が常に先送りされる。ニコニコ動画の「永遠のベータ版」や、思想地図vol.2の濱野論文における「タグのフラクソノミー」に見られるように、ウェブは物理的限界が限りなくゼロに近いため、切断による固定はすぐさま次のアップデートによってキャンセルされ、「前のver」として残るに過ぎない。
そして、後者の「ひろゆき的公共性」の議論は、濱野がひろゆきを「都市プランナー」と呼んだ事から始まった。本人はそのような自覚は無いが、結果的に2chという巨大な都市群を作り上げ、コントロールしたことは、公共的といわざるを得ないのではないか。東はこれを「非公共的なものを語ることが公共的なのかもしれない」と述べている。

いくつかの補助線 「ローカルなパラメータ」/「共同性と公共性」

さて、上で挙げた二つの問題、「切断」による作家的な固定とウェブの関係、および非公共的なパーソナリティによる公共性は、一見つながらないように見えるし、先日筑波批評社で行ったustreamプログラムでも、この二つの問題は切り離されているかのように見えてしまっていた。
何点か考えたことを。「ひろゆき的公共性」は、しかしそれが作り出したコミュニティが極めて「共同性」に基づいたものであることを指摘しておく必要があると思う。濱野の「都市プランナー」という比喩はそういう意味でも極めて的確で、都市と一口に言ってもいくつものレイヤーから成り立っており、そこでは「公共性」と「共同性」が相互に関係を持ちつつ別々に立ち上がっている。近代都市は共同性を換骨奪胎しながら公共性を半ば無理やり立ち上げてきたわけで、それは特に日本などでは実にトップダウン的だった。しかしひろゆきという個人は「飽きたらやめる」と述べている通り、都市プランナーとして考えたとき、そうした近代的な作家性からはかけ離れている。しかし彼が作り出した2chというコミュニティは、<繋がり>の社会性という北田暁大の指摘もある通り、共同性の次元でのみ駆動している。宮台真司がシンポジウム中たびたびちゃぶ台返しを仕掛けていたのは、それが「公共性を作り出す公共性」ではなく「共同性を作り出す公共性」であり、つまるところ島宇宙のプランニングでしかないじゃないか、ということだったのかもしれない。
次に「切断」の問題。ウェブは物理的限界が無いので切断による固定が先延ばしされる、という話は、id:sakstyleがレポの最後にちらっとAR(拡張現実)の話と絡めており、そこらへんが面白いのではないかなと思うのだが、ネタをかぶせてもつまらないのでここではあくまで建築の話を続ける。
磯崎新は「切断」という言葉を使って恣意性の不可避を説いたが、それは彼が現代の建築家の作家性をそうした消極的な形でしか言語化できないということでもある。しかし彼の一回りも二回りも世代が下の建築家からすれば、そうした形ですら今や彼らに建築家としてのパフォーマンスを発揮する場所は減っており、「切断」すら出来ない、あるいは出来なくなるという危機意識があるように思う。建築家の藤村龍至はおそらくそうした危機感を鋭敏に感じ取っている人間の一人で、個人的にはシンポジウムの誰か一人メンバー外して彼を入れたほうがずっと面白くなったのではないかと思う。
藤村龍至の「批判的工学主義」およびその実践理論である「超線形設計プロセス」は、「切断」という語の持つネガティブさを上手く積極的な形に変換してくれる思考でもある。シンポジウムで磯崎が挙げたgグレッグ・リンの手法は、かなり大雑把にいえば「(理論におけるパターンの)生成→生成→生成→生成:(マーケットによる)評価」であった。一方、超線形設計プロセスの場合、理論は常にクライアントとのコミュニケーションによりフィードバックを受け、さらにそのログを記録しオープンにする。つまり「生成→評価→生成→評価→生成→評価」という形になる。*2リンの手法は、切断の恣意性をマーケットに全て丸投げしたが、超線形設計プロセスにおいては生成と評価を繰り返すことでその恣意性の所在が曖昧になる。これによって作られた建築物は、「切断」の産物というよりも、むしろ個別に散らばったローカルなパラメータを精緻に読み込んだ結果、という形で解釈されるべきで、そこで建築家はあたかもその場所ごとの条件と建築物を結ぶ触媒の様な形で存在する。
思想地図 vol.2』の西田亮介による論文は、ローカルなパラメータをより精緻に読み込んでいく=その場所固有の文脈を重視するという点で上記のような議論と親和性が高い。浅田彰はシンポ中「サイバネティクスの議論のときと何も変わっていないのでは」とちゃぶ台返しを試みたが、*3理論の問題設定自体は変わっていなくとも、それが現実のレベルに降りてくるという段階に今来ているのだと思えば、今回のようなシンポジウムも有益であるし、濱野の分析もまた決して「空回り」などではないように思う。

そしてLive Round About Journalへ

「切断」による固定が、ログをオープンにしてフィードバックを絶えず受け付けることで、暫定的なものになる。ウェブはさらに物理的限界を持たないためそれが(サービス単体で見れば)永続的なものになり、建築の世界ではローカルなパラメータを読み込む精度の問題へとつながっていく。そこで建築家というものが、もっと広義に行ってしまえば「場を作る」人間が、果たしてどう振る舞い、何を立ち上げるのか(共同性か公共性か)。かなり無理やりだがシンポを受けて個人的に抱いた問題意識はこういうものであった。
そして31日にINAX:GINZAで開かれた藤村龍至主催の「Live Round About Journal 2009」は、こうした問題意識をより具体的な形で考える絶好の機会となった。長くなってしまったので、とりあえず文章は書くだけ書いて、エントリーとしては明日公開することにする。

*1:彼はポメラで議事録を作ったいて、実は僕もggincさんに触発されてポメラを買ったクチなので、当然会場にポメラを持っていた。ところが肝心のエネループ単四が切れており、予備も持っていなかったため(モバイルブースターはあったのに!)敢え無くメモ帳に書くこととなった。やはりデジタルネイティブは電源とアクセスポイントエネループがないと役立たずだ

*2:東がシンポジウムの中でちらっとログの話と藤村龍至の名前を出したのだが、本当にちらっとだったのでもう少しガリガリ喋って欲しかった。彼は思想地図三号に原稿を寄せるそうなので、ネタばらしになるからかもしれない。

*3:彼の今回の風貌、振る舞いは押しなべて「昭和からの刺客」感が満載であり、それはそれで偽悪的というか自覚的にやっているんだろう