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絶倫ファクトリー

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インターネットとカジュアルな狂気

日常を綴る

インターネットの普及がもたらした功罪は山ほどあるが、その多くは功であり罪あり、一刀両断にこれは善これは悪と切って捨てることのできるものではない。そしてそれらはそれまであった事象や関係性がラディカルに変化したというよりも、表面的には非常に見えやすくなった、つまり可視化されたことによる変化である。

ふとネット上で「コミュニティ」と呼ばれるところを見てみると、あちらこちらで人間同士のトラブルが起きている。まっとうな議論ならばそれはトラブルではなく、トラブルとして認識されているものは大概「ああおかしいなぁ」と思える人が絡んでいる。1人で何十人分ものコメントを装ってブログや掲示板を炎上させる。Twitterでただ一人の人間を罵倒するためにアカウントを作り延々とリプライを飛ばす。どこから持ってきたのか分からないくらい真っ赤なウソをひたすらばらまく。小町で……Togetterで……挙げていけばキリがない。

気づけば僕らの周りにはいつも狂気が見えている。「カジュアルな狂気」と言っていい。それはたとえネットでのみ観察される現象だったとしても、単にこれまで日常生活の向こう側に隠され見えなかったものが可視化されただけにすぎない。もともと世の中はカジュアルな狂気にあふれていたのだ。

数年前の夏、伊豆の海に潜った。スキューバダイビングは初めてで、インストラクターの方に指示を仰ぎながら、おっかなびっくり20mそこそこの深さまで潜った。最初に驚いたのは水の綺麗さと、有毒・有害動物の多さだった。砂に足を着こうとするとムラサキウニがいる。魚の群れはゴンズイだった。岩の陰にはウツボがいる。綺麗な魚だと思って近づいたらミノカサゴ。いずれもこちらが特に攻撃するないしはそうと取られる行為をしない限りはあちらも攻撃してこない。

だが事故はある。一緒に潜った先輩は前年も同じタイミングで同じ場所に潜り、着水の瞬間にムラサキウニを踏んでその夏二度と海を見ることはなかった。

同じように、カジュアルな狂気もまた、ネット上で完全に避けることはできない。僕らは呼吸するように他人の感情に触れ自分の感情を吐き出している。読み手と書き手の境界線が曖昧になればなるほど、見る者と語る者の垣根が下がれば下がるほど、カジュアルな狂気の密度は上がっていく。ふと手を振り払ったところに、運悪く誰かの狂気があるかもしれない。

スキューバダイビング全員初心者だった僕らは、最初のダイビングで早々に酸素を使いきって船に上がることになった。緊張して呼吸が速くなり、あっという間にボンベを空にしてしまったのだ。僕らがまっとうに呼吸できるようになったのは、だいぶ水中の動きからぎこちなさが取れてからだった。

ネットでも、カジュアルにあふれる狂気を避けるには、あまり周囲に大して過剰な意識を持たず、ごくごくまっとうにするする泳ぐしかないのかもしれない。狂気は往々にして無限とも思える反復行為を伴うが、彼らに意識を向けることは、その無限の一方通行を引き出しかねないからだ。