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「メタボリズムの未来都市展」と文学フリマ『筑波批評 2011年秋号』

森美術館で開かれている「メタボリズムの未来都市展」に行ってきた。

1960年代の日本に、未来の都市像を夢見て新しい思想を生み出した建築家たちがいました。丹下健三に強い影響を受けた、黒川紀章菊竹清訓槇文彦といった建築家たちを中心に展開されたその建築運動の名称は「メタボリズム」。生物学用語で「新陳代謝」を意味します。それは、環境にすばやく適応する生き物のように次々と姿を変えながら増殖していく建築や都市のイメージでした。東京湾を横断して伸びていく海上都市、高く延びるビル群を車が走る空中回廊でつないだ都市など、その発想の壮大さには驚かされます。
メタボリズムが提唱されたのは、戦争で荒廃した日本が復興し高度経済成長期へと移行した時代です。そこには理想の都市を通じて、よりよいコミュニティをつくろうという思いもありました。この展覧会は世界で初めて、メタボリズムを総括する展覧会になります。日本が大きな転換点に直面している今だからこそ知りたい、建築や都市のヒントが詰まっています。

http://www.mori.art.museum/contents/metabolism/about/index.html

4つのセクション

展示会は以下の4つのセクションから構成されている。

1.メタボリズムの誕生
2.メタボリズムの時代
3.空間から環境へ
4.グローバルメタボリズム

「1.メタボリズムの誕生」は、メタボリズムグループに大きな影響を与えた丹下健三の仕事を戦前から振り返るというもの。丹下はメタボリズムグループがその名を世界に発信することとなった1960年の「世界デザイン会議」内容構成責任者だったが、渡米の予定があったためその任を浅田孝に預ける。浅田はメタボリズムグループのリーダーとなり、世界デザイン会議の準備段階からメタボリズムを提唱し始める。また黒川紀章など、メタボリズムグループの中に丹下の指導を受けた者もいる。丹下健三メタボリズムグループのメンバーではないが、強い影響を与えている。

「2.メタボリズムの時代」は、メタボリズムメンバーの建築案や実際の建築物を紹介している。また磯崎新などメタボリズムグループには属していないものの、影響を受けていると思われる人々の建築も紹介している。実際の建物を持ってくるわけにもいかないため、文章で・写真で・動画で・模型で……と様々なメディアを展示しており、まともに見ようとするとかなり長い。

「3.空間から環境へ」は1966年に開催された、磯崎新山口勝弘らによる「空間から環境へ」展、そしてメタボリズムの到達点ともいわれる大阪万博の様子をメタボリズムという軸で紹介している。会場の総合設計を丹下が担当しており、この万博で実現したアイディアのいくつかは、1961年に彼が発表した都市計画「東京計画1960」の中にある。この「東京計画1960」は東京湾を鎖上の高速道路で横断し、その間を埋め立てていくというもの。東大の丹下研究室がメインとなっており、計画書の表紙には黒川と磯崎の名前も見える。「2.メタボリズムの時代」で詳しく紹介されている。

「4.グローバルメタボリズム」はメタボリズム・グループのメンバーたちが海外で行った活動の紹介をしている。菊川清訓はハワイ大学に招聘され、海上都市の計画を行う。これは1975年の沖縄海洋博で実現する。また黒川が携わっていた中国・鄭州市鄭東新区如意型区域都市計画は、彼の死後、磯崎が引き継ぎ計画が進んでいる。

モダニズムのマイナーアップデート

メタボリズムの発想は、経済の変化やそれに伴う都市の成長に対し、建築が追いついていないという問題意識が根底にあった。メタボリズムグループ発足の直前、彼らと交流を持っていた国際的な建築家集団「チームX(テン)」は、従来のモダニズム建築の課題を「成長と変化」だと指摘し、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジエらが参加していた国際会議「CIAM」を批判、解体に追い込む。

1851年、ロンドン万博に出現した「クリスタルパレス」によって予言された「鉄・コンクリート・ガラス」の時代は、科学による未来への邁進という夢を背負わされ発展してきた。その限界が見え始めた1950年代後半、メタボリズムは生まれ、1970年の大阪万博で1つのフィナーレを迎える。そう考えると、第一セクションは丹下の戦前の仕事だけでなく、それこそ第一回万博をスタートにしても良かった気もする*1

サステイナブル(持続可能)な都市・コンパクトシティという言葉はこの数年良く聞く言葉だけれど、万博が当初の構想では閉幕後敷地を一種のコンパクトシティとして活用することが「3.空間から環境へ」を見ると分かる。無秩序な発展というモダニズムの抱える最大の問題に対する回答を見出そうという発想が、見てとれる。

ただメタボリズム建築の多くが計画案だけで実行されるに至らなかった*2のは、単にその形態が奇抜だからだけではない。黒川の「中銀カプセルタワー」が実現したように、単発の建築レベルではどうにか形にはなる。しかしメタボリストたちの発想は、1つの建築物だけでなく、都市計画にまで踏み込むものも多かった。これは計画倒れが多いということ以上に、「新陳代謝」という日本語訳とは裏腹に、メタボリズムが「計画的な発展」という、モダニズムのマイナーアップデートしか提供できなかったことの表れなのかもしれない。彼らがその後新興国に軸足を移し、今メタボリズムが再び脚光を浴びているのも、発展著しい新興国である。

1960年代の日本では、メタボリズム建築が騒がれる横で、着々と団地・ニュータウンの建設が進んでいた。彼らが解決策を提唱するその横で、問題は進行していった。結局のところ、モダニズム建築を襲った「成長と変化」という課題は、その真因である経済的な変化の速さそのものによって解決された。物流の進化と材料の低価格化は、スクラップアンドビルトというハードの新陳代謝を促進した。実現したメタボリズム建築の多くは、今老朽化し、「解体」という解決策が与えられている。

ではモダニズムの寵児たる団地やニュータウンは、国内でどのような運命をたどったのか?また今後辿っていくのか?

というわけで宣伝です

伊藤海彦「メタボリズムのシミュレーション――今井哲也『ぼくらのよあけ』と阿佐ヶ谷住宅

奇跡の団地と称された阿佐ヶ谷住宅、そこを舞台に少年たちと宇宙船に搭載されたAIとのファーストコンタクトを描いたSFマンガ『ぼくらのよあけ』

何故この作品は阿佐ヶ谷住宅を舞台としたのか。

そしてまた、阿佐ヶ谷住宅はこの作品に描かれることでどのような可能性を示すのか。

1960年に提唱されたメタボリズム建築の、もしかしたら別様にもありえたかもしれない可能性をマンガの中に見出そうとする伊藤の論考です。

伊藤が筑波批評に掲載するものとしては、初めての作品論であり、また初めての巻頭でもあり、今までとは異なる、あるいは今までの論文とも通底する彼の文章をご期待ください。

http://d.hatena.ne.jp/tsukubahihyou/20111027/1319723871

団地やニュータウンが想定した物語は、今やそのハードそのものが物理的な更新の危機に陥っている以上、現実にはあり得ない。もしそれでも生き残るとしたら、それはフィクションの世界においてである。「ぼくらのよあけ」は、SFとジュブナイルという武器を手に入れた団地が、どのような物語を生み出すのか、一種のシミュレーションとして機能している。

という話を11月3日の文学フリマで販売される『筑波批評 2011年秋号』で書きました。珍しく作品論です。このブログを書きながら「あーあれについても書けばよかった」と色々後悔していますが。「アフタヌーン」上で連載されていた漫画で、数日前に発表された最終回を読んで二重の意味で涙しました。団地はこれに懲りずに今後も追いかけていくつもりです。是非。

*1:そうなると多分何時間あっても見終わらない壮大な展示会になってしまうが

*2:展示会にある資料のキャプションのうち、実現したものはわざわざ「実現」という赤いシールが貼られているのだ