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アーキグラムと黒川紀章の絶望

アーキグラムという建築家グループがいた。

アーキグラムとは、1960年代から1970年代初頭にかけて活躍したイギリスの建築家グループの名称であり彼らが出版していた雑誌のタイトルです。

ピーター・クック(1936-)ら、6人の建築家がメンバーだったアーキグラムは、詩と建築、デザインなどの分野を自在に横断し、消費社会における新しい建築や都市の姿を、当時のSFコミックスや広告などのイメージを引用しながら、ポップなグラフィックやコラージュで表現しました。
巨大な都市に昆虫のような脚がついており、居住者が希望する場所へ移動する「ウォーキング・シティ」や、着脱可能な空間ユニットを集合住居やオフィス、店舗など多様な用途にあわせて組み立てた「プラグイン・シティ」など、彼らの奇抜なアイデアは『アーキグラム』誌上での実験に留まり、実際に施工されたものはありません。

しかし建築界のビートルズとも呼ばれる前衛的かつユーモアにあふれた姿勢はレム・コールハウスやザハ・ハディッドなどの建築家だけでなく、ポール・スミスなどのデザイナーにも影響を与えました。

ARCHIGRAM -- Experimental Architecture 1961-1974 (Japanese) / Contemporary Art Center, ATM

建築界のビートルズというよりは、SFや広告からイメージを引っ張ってきてコラージュするあたり、建築界のウォーホールの方がしっくりくる。

日本のメタボリズムグループと同時期に現れたので、互いに影響しあっていたと言われている。ところが黒川紀章の1967年当時の発言を読むと、単にそれだけでもない差違があったらしい。

社会のあり方を構想するという意味でのイメージを拒否する、アーキグラムのイメージに対して、僕らのメタボリズムのイメージは、現実の地球上に未来という種をまいていくものである、言葉を替えて言えば、チームXやメタボリズムは未来に絶望して現実に絶望していない。ところが、アーキグラムは現実に絶望したために、未来を現実化しようとしていると言えるだろう。彼らの描いている未来は、未来を現実化し得るものとして対象化している。メタボリズムの僕らは、そのような未来を持っていない。むしろ、未来に絶望しているから、現実を未来化しようとする。

(『デザイン批評』1967年6月 No.3)


文字だけだと分かるようで分からないので、例によって図にしてみた。

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現在あるものに対して、メディアは未来への志向性を与える。人類初の宇宙遊泳という事実は現在の事象だが、そこに「月面進出」「宇宙への移住」といった<未来>を与えるのは、メディアだ。

アーキグラムはこのメディアが作り出した未来を自分たちの雑誌の中に引っ張り込み、再利用した。未来をメディアの間で循環させ、再生産する役割を担っていた。

一方、黒川紀章は「未来に絶望」していたらしい。メタボリズムの中でもかなり特異な発想を持っていた黒川は、メディアが作り出す<未来>のオルタナティブを提示しようとしていたように見える。ここで気になるのは、黒川が絶望した<未来>の中身だ。彼はアーキグラムの建築イメージについて、同じ文章の中で「技術的には五年後には可能」であり「評価できない」としている。

しかしアーキグラムのメンバー、ウォーレン・チョークはカプセル型の住宅を打ち出しており、黒川のその後の建築と極めて近い。とすると、絶望の矛先はアーキグラムが描くような未来ではなく、当時の日本国内のメディアが描いた<未来>だったと考えられる。団地族という言葉が生まれたのが1958年。メタボリズムグループ結成の前年である。1950年代から60年代前半にかけての日本が描いた未来は、建築で言えば団地であり、メタボリズムに強く影響した国際建築家グループ「チームX」が解散させたモダニズム建築の結晶でもある。問題提起している対象のはずのモダニズム建築を、彼らからすれば前時代的な世界を<未来>として夢見ている事態に、黒川は絶望したのかもしれない。

ただやり口としては、アーキグラムの方が賢かったのかもしれない。結局のところ黒川自身が(おそらく)アーキグラムの作り出した<未来>から、自分の建築のイメージを引きだしたように、建築家がメディアから影響を強く受けるようになった以上、メディア上にイメージをばらまくことが現実を変える一番の近道だった。

黒川を始めとしてメタボリズムの建築は結局新陳代謝されることなく、老朽化によって取り壊されるものが多かった。これを失敗として見るならば、同じ発想で最も上手くいっているのは実はディズニーなのではと思っていたりする。そこらへんもまたちょっと調べてみたい。