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ソーシャルメディアにおけるベネトン広告「UNHATE」の広まり方

「枠」を揺さぶるベネトンの手法

ベネトンの新しいキャンペーン「UNHATE」が話題になっている。

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http://unhate.benetton.com/campaign/china_usa/

敵対する国家首脳(一部宗教トップ)同士がキスしている写真が並ぶ。もちろんコラージュだが、かなり「本物」っぽくできている。

ベネトンは、オリビエロ・トスカーニの手によるショッキングな広告を多く発表してきた。

http://www.ne.jp/asahi/box/kuro/report/benettonad.htm

今回の広告が彼の手によるものなのか分からないのだけど、これまでの路線を踏襲したものには違いない。

比較文化学者の今橋映子は著書『フォト・リテラシー』の中で、トスカーニのベネトン広告についてこう書いている。

トスカーニは、報道写真の媒体そのものを転移することで、すさまじい拒否反応を確信犯的に引き起こすのである。(中略)私たちが考えるべきなのは、例えばグラフ雑誌の中でならいまや誰も驚かず、むしろ見過ごしてしまうような報道写真(たとえば血まみれのシャツ)が、広告という「異化効果」の中に埋め込まれたとたんに、かくも強力に読みとりのサインを私たちに発しはじめるという、その驚きなのである。(p.181)

トスカーニの写真は、私たちがモノを見るときの「作法」を揺さぶる。報道写真であればこう、週刊誌の写真であればこう、広告であればこう。その作法が、逆に被写体への印象そのものを司っている。それに逆らったイメージを広告という枠の中に入れることで、写真を見るときの作法を意識させる。

ただこれは「写真展に並んでいそうな写真を広告の中に流し込む」といった「枠から枠」への移動だった。写真展やグラフ雑誌といった「枠」と、広告という「枠」、それぞれに写真を見る一種の作法があった。けれどインターネット、とくにソーシャルメディアが普及し、TwitterFacebookの中でベネトンの広告写真が流通するようになった時、そこには何か「枠」があるのだろうか。あるべき「枠」、写真を見る際の作法との摩擦によってその意味をなしてきたベネトンの広告写真が、ソーシャルメディアという枠も作法もない世界に投げ込まれた時、はたしてどんな効果をもたらすのか。

メタ情報ごと流通するソーシャルメディア

実感としては、「反嫌悪」と訳されたキャンペーンに反し、「気持ち悪い」「うへぇ」といったカジュアルな嫌悪を呼び起こしながらこの写真は広まっている。確かに見て気分のいい写真では決してない。逆に言えば、「気持ち悪い」「へどが出そうな」写真が、ここまでソーシャルメディア上で広まったことはあまりない。あまり度が過ぎたものを流せば反発を受けるし、下手をすれば炎上に繋がるからだ。けれど(僕の観測範囲内では)ソーシャルメディア上でこの写真はかなり広まっていた。それは「ベネトンの広告である」というメタ情報が付与されていたからにすぎない。ベネトンの広告であるという情報が付くことによって、情報を流す方は「安全に」流せるし、コメントする方も、カジュアルに嫌悪感を示すことができる。それは写真そのものへの嫌悪感ではなく、「それがベネトンの広告である」という情報に対する反応である。

上で「ソーシャルメディアという枠も作法もない」と書いたが、今回の「UNHATE」についていえば、「ベネトンの広告」という枠がきっちり機能していた。もっといえば、ソーシャルメディア上で流通していたのは、この写真そのものではなく、「ベネトンの広告である」というメタ情報である。ソーシャルメディア上では、枠なり作法なりを提供するためのメタ情報が、写真というオブジェクトを引っ張り、流通「させる」のだ。

今回の広告に対するソーシャルメディア上での反応をすべて観察したわけではないので、これは単なる実感に過ぎない。けれどソーシャルメディアで情報が流通するとき、そこに情報を扱う枠・作法をもたらすためのメタ情報が媒介として存在し、それが情報の流通に強い影響をもたらしているのではないか。言い切ってしまえば、ソーシャルメディアで流通しているのは、情報ではなく、メタ情報なのである。

フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理 (中公新書)

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