絶倫ファクトリー

生産性が高い

こじらせ女子とは何か

こじらせとは、ワナビーと構造的に対になる言葉である。

過剰供給される「ありえるかもしれない自分」

人は様々な「物語」を生きる。消費社会はメディアを通じて私達に様々な可能性を見せる。時に人はそうした外部の物語が先行して、行動よりも願望が先回りしてしまう。ワナビーとは、「ありえるかもしれない自分」の亡霊に惑わされ続ける人のことだ。一方「こじらせ」はその逆である。いかなる「物語」も拒否し、生き方に迷う人々を指す。ワナビーもこじらせも、「ありえるかもしれない自分」を上手くキャッチできていない人種である。方向性がポジティブなのかネガティブなのか、ワナビーとこじらせの差はその違いにすぎない。

自分で自分固有の人生を回せない=自分の「物語」を持てない。それは今に始まった現象ではない。資本主義以前の世界で、人々の物語は決まっていた。生まれた瞬間、たいがい人々の前に見えないレールが敷かれていた。資本主義が浸透した後も、しばらくはレールが身分から階級へと名前を変えたに過ぎなかった。ところが資本主義が高度化すると、階級すらも取り払われ始めた。資本主義において基本的に固定化は望まれない。人々はレールを外され、鎖を解かれた。代わりに現れたのはメディアによる「物語」の過剰供給だった。わたしたちに「個性」を押し付けたのは教育ではない。広告である。資本は市場をもとめて、ありとあらゆるメディアの割れ目=広告をつたい、人々に「ありえるかもしれない自分」=物語を見せる。ファッションから就職先まで、あらゆるところで人々は「ありえるかもしれない自分」を夢想させられ、「ありえたかもしれない自分」の残像を振り払いながら生きていく。決して手の届かない物語を掴まされても、誰も責任は取ってくれない。何が手の届く物語なのかわからず、手を伸ばさないことにしたしても、同じ事だ。物語に躍らされる者、物語を忌避し続ける者。大平原に放り出され、地図とコンパスを自ら用意できるものは、決して多くはない。

インターネットの影響

インターネットの登場はこれを加速した。物語を見せるのは広告だけではない。人々が自ら物語を語りはじめたのだ。「ありえるかもしれない自分」が、ブログ・Twitter・まとめサイト、あらゆるところに跋扈し始めた。インターネットを通じて、断片化された他人の人生を見ない日はもはやない。自分よりずっと実力が上の人間の生き様をどっと見せられた時、その道を諦める人もいるだろう。その逆もあるだろう。インターネットは、羨望と忌避を大量に生み出した。

付随してもう一つインターネットは問題を生んだ。名付けだ。そのようにワナビー的/こじらせ的に人生を送る人々は昔からいた。しかしインターネットはそうした人々に「ワナビー/こじらせ」と名前をつけた。それは「ワナビー/こじらせ」を自称する者、他人を「ワナビー/こじらせ」呼ばわりする者の2つを生み出した。結果、それらの言葉が急速に普及し、意味が変質した。元来「ワナビー/こじらせ」と呼ばれる人=ネイティブワナビー/ネイティブこじらせと、その名前が広まった後、再帰的に呼ばれるようになった人では、もはやその内容が異なってくる。

雨宮まみ『女子をこじらせて』を出すまでもなく、特にこじらせ的な生き方は女性に多いように思う。それは若い時の女子的な生き方のテンプレートが極めて窮屈なこと、いっぽうで社会に出た後のロールモデルが極めて希薄なこと、このコントラストの強さが一因なように思う。とはいえその事情は個々人でだいぶ違うはずだ。特にインターネットの影響については年代によって差がある。





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ということで文フリの季節がやって参りました。宣伝のお時間です。

11/18開催の文学フリマで頒布される『ねとぽよ 女の子ウェブ号』では、大学生から社会人まで、実際の「こじらせ女子」の声を集めて、彼女たちがどのように生き、ネットを使いそれがどのような影響を与えているのかを記録しています。担当は象徴編集長・斎藤大地。その他のコンテンツは以下をご覧ください。

女の子ウェブ号 | ねとぽよ ねっとぽよくはへいわしゅぎをひょーぼーします